73章
要は何も見えない、何も聞こえない暗闇の中にいた。其処は余りにも救い様がなく絶望的で、正にタルタロスの底と呼ぶに相応しい所であった。
「…俺は何故此処にいる?」
考えれば考える程答えから遠ざかる気さえした。行き詰まった挙句、思考する事すらも嫌になりかけた。
「…俺は、何だ?」
手を動かす事や足で歩き回る事も出来ず、五感も失って自分がどういった状況に置かれているのかも分からずにいた。
「…俺は、何の為に存在してるんだろう?」
こうなる以前は、もっと色々な事を知っていた気がする。色々な物事に関わって、世界の広さを実感していたんじゃないだろうか。
「……」
何かとても大切な事を忘れてしまっている、という思いが要の気持ちを更に追い詰めた。だが、泣きたくても目がない。声を上げたくても口もない。そもそも要には悲しんだり喜んだりするという感情が欠けていた。だからこそ、この内なる謎の衝動をどうする事も出来ず、ただ持て余していた。
時間がどれだけ過ぎたのか、その前に時間という概念も分からず、要はただ内なる衝動をそのまま放置していた。別に何が原因か、分かろうが分かるまいが、この状況が変わる事はないのだ。
「…だめ」
甘ったるい女の声が暗闇中に響く。要はその声を何処かで聞いた事があった。でも、思い出す事が出来ない。
「要君。君は此処にいちゃ、だめ」
何故?どうせ俺には何も出来ないんだ。
「いいえ、要君にはとても大切な役割があるの」
そんなの、知らない。
「悪い子ね。でも私、そう云う要君も嫌いじゃないわ」
要は全身を何か優しくて温もりのある柔らかい物に包まれた様な心地がした。
「気持ちが良いのね。要君の顔がそう言ってる」
女に指摘され、要は顔を赤らめた。とは言っても、暗闇の中でその表情は目に見えない物ではあったが。女はそんな要の様子を察し、要の首を両腕で抱くと、まるで眠りにつこうとする子供を寝かしつけるように頭を撫でた。要は恍惚としながらも女の顔をよく確かめようと目を細めた。
「…リョウ?」
「そうよ。要君、良く出来ました」
リョウは微笑むと要の唇に自身の唇を重ねた。その瞬間、世界を揺るがす大きな振動と共に、心臓の鼓動の音が暗闇中に響き渡る。その鼓動の音に合わせ、眩い光が要の居た場所を照らし出した。
そこは水深僅か10m程の穏やかな海の底であった。
要は海の中で呼吸をしていた。苦しいという感覚は全くなかった。光芒が幾つもさし、その光に照らされた要は、海底の白い砂の上に自分の影が映っているのを発見した。その間にも鼓動の音は大きく鳴り続けていた。
「要、やっと起きたか」
それはアサナギ・シンの声だった。
「シン?!」
要は驚いて辺りを見回す。だがそれらしき人の姿は全く見えなかった。
「こっちだよ、要」
声は何と砂の上に映る影から発せられていた。
「今迄何でこっちに出て来なかったんだ?」
「僕だって四六時中、君達の動向を見張っていられる程暇じゃなかったんでね。それにタラッサが僕と君の繋がりを逆手に取って、ステュクスを介した契約を結ばせるとは思いもよらなかったんだ」
影は言い訳をしながら、要の背後から射す光の量に比例してどんどん色を濃くしていった。
「君がアバターの中に閉じ込められている間に、タラッサは君の身体を使って現実世界に干渉しているらしい。見えるかい?」
要は瞼をゆっくりと開けた。そこはテタルトが格納されているネオ・ムセイオンの地下研究所の中だった。非常電源が入っていないのか、水が汚れていて部屋中が生臭く感じられた。
「ステュクス、大丈夫?」
モニターから要がよく知る懐かしい人物の声が聞こえた。
「…はい」
要は背後に何かの気配を察して振り返った。そこにはあの浅海の中の光景が広がり、要の影の上に一人の女が立っていた。
「…見つけましたよ。美崎要」
女は人間の姿を型取ってはいたが、その実は石像の様に冷たく、澄んだ水の様に色彩の無い状態で、ただその場に存在していた。だが、それは要が今迄に経験したことがない、異様な存在感を発していた。
「貴方はスイ様と、彼女がお造りになられた均衡と、そして彼女がご懇意になされている人間達の関係を保つ為に、我が子達、ビアーとクラトスの力を自らの物とした。そしてその代償に、自らその身を冷酷非情なタラッサに捧げてしまった。結果として貴方は此処に縛られているのです」
そう言われて初めて要は、自分の両足首に鎖が何重にも巻かれている事に気が付いた。
「お前は誰だ…?」
「他人は私をステュクスと呼ぶ。だが、それは昔の字。もうじき新たな名で呼ばれる事になりましょう」
そう言ってステュクスはしゃがみ込むと、彼女の足元に広がる要の影に両手を当てた。
「お父様、今、解放して差し上げます!!」
ステュクスの言葉と共に、要の影は砂を巻き上げて大きく膨らみ、またステュクスの透明な身体も影と溶け合う様に影の中心に呑み込まれて行った。その様子を目の当たりにした要は、全身に悪寒のようなものを感じた。
やがて砂がぱらぱらと落下し、要の影は一つの人物を象った。
「やあ、要」
「…シン。何の真似だ?」
「何って、口寄せされたんだ。僕に最も近い存在の彼女なら、僕のダイモンをサルベージ出来ると踏んだんだろうな」
シンは一瞬視線を逸らすと、再び要を見据えた。
「今、僕はステュクスに憑依した事で、一時的に受肉した状態になっている。それでテタルトとの同調が可能になって、君は目覚める事が出来たんだ。意味は分かるか?」
「俺はテタルトの中にいたのか?」
「厳密に言えばそうではないんだが、まあ、それに近い状態かな」
「もう元の状態には戻せないのか?」
「契約を結んだ君の魂。契約を取り持ったステュクスの血。そして、審判を下す不動の掟のダイモン。契約解除に必要なものはあと一つ残して、ほぼ此処に揃っている」
「あと残りの一つとは?」
「契約を提起したタラッサの魂さ」
シンが答えるとほぼ同時に、視界が大きくぶれ、海の中が揺さぶられるのを感じた。
「さあ、彼女のお出ましだ」
テタルトの中で要達が感じた大きな揺れは、カプセルが設置されている部屋と、スイがいるコントロール室にも到達していた。
「ステュクス、大丈夫?」
ステュクスが入ったカプセルの周りで漣が生じる。画面上の数値には特に問題はなさそうだったが、同調し始めてから彼女の返事がほとんど無い事に、スイは不安を感じていた。そこへ起きた大きな地震は、更に彼女の不安を煽り立てた。
「…何が起きてるの?」
スイがアクリルパネル越しにテタルトの方へ視線を向けた、その時だった。
テタルトがいるプールから大きな水飛沫が上がった。まるでプールの中で大爆発でも起こった様に、アクリルパネルにも水がかかり、一瞬スイの視界が遮られる。
「ステュクス!」
スイは少しでも状況を肉眼で確かめたくて、アクリルパネルに顔をつけんばかりに近寄った。だらだらとアクリルパネルの表面に当たった水が床に向けて流れ落ちて行くその裏側で、冷たい表情でテタルトと向かい合う要と視線がほんの僅か交差した。
「美崎君…!」
タラッサ=要は供も連れず、ただ独りでネオ・ムセイオンへと戻って来た。テタルトのプールで起きた大きな水飛沫はその衝撃によるものだった。
天井や壁中から水滴が静かに流れ落ちる。テタルトとタラッサ=要は互いに睨め合う様な形で凝視していた。
「貴様、娘の身体に己の魂を乗り移らせたのか」
「僕に断りもなく、君が要の身体を乗っ取ったからね。お互い様さ」
シンの言葉がタラッサ=要の脳内に直接響き、要の顔付きは憎悪で満ちたものへと化した。そしてふと後ろを振り返る。アクリルパネル越しにコントロール室から此方の様子を伺うスイの姿が目に入った。
タラッサ=要は再びテタルトを睨む様にして言い放つ。
「貴様等の魂胆は分かっている。妾と彼の者の契約を無効にし、妾を傀儡の中へ再度押し込めようと言うのだろう?」
「結果として、そうする他に要を解放する方法がなければね」
「またあの女の差し金か!!」
タラッサ=要の怒りに呼応するかの様に、プールの水が一気に沸騰した。空間の中を朦々と水蒸気が立ち込める。
「落ち着けよ」
シンの言葉と共に室内は一気に冷却され、要の身体も含め、部屋中の物が全て凍りついた。
「僕達はあの御方がいなければ生き残る事は出来ないし、次の世代へ移る事すら不可能だ。君は変化を受け入れるべきだよ」
諭すようなシンの言葉に逆らうかの様に、要の身体を覆っていた氷は瞬時にして砕け散った。
「あの女は妾から伴侶を奪い、信仰を奪い、地震で我が子達の住処を奪った上、妾についての記憶の破壊を差し向けた。その結果、人間共は海を汚し、土砂で埋め立て、更には海底に屋敷を建て、妾が創り上げた世界を掻き乱しては幾星霜にかけて多くの生命を愚弄してきた。妾は断じてそれらの蛮行をこれ以上許すことは出来ぬ!!」
タラッサの叫びはモニターを通じてコントロール室にいるスイの元にも届いた。スイは要の姿でタラッサが発した主張に何も言葉が出て来ず、静かに息を飲んだ。
「それが7000年前もあの子に加勢した理由なんだね?」
「そうだ!偉大なる黄金時代の王にして、至福者達の島を統べるクロノス。妾と我が子孫達は彼の復活の為に戦う!」
シンはため息をついた。そして決断した様子でカプセルの中から声を発した。
「スイ、聞こえるか?」
ずっと静寂を保っていたモニターから突然ステュクスではなく、ヒューペルボリアで会話した兄の声が聞こえ、スイは驚愕した。
「兄さん?!何故そこに?!」
「僕の声が聞こえてるね?これから僕は正義の為に対決しなければならない」
「対決って、誰と…?」
「誰って、タラッサとさ。だがスイはこの対決に直接手を出してはいけない。その代わり、どちらの勝者を選ぶか、君が審判を下すんだ」
スイが声を上げるよりも先に、テタルトの腕がプールの中から現れ、要の身体目掛けてその握り拳を振り下ろした。




