72章
シャボン玉は吹き抜けの底辺に着くと、その役割を終えたのか、パーンと高い音を立てて爆ぜた。当初スイは何が起きたのかが分からず、キョトンとした表情で床にぺたりと座り込んでしまった。カロンはそんなスイの方を向き、大きな2つのハサミをカツカツとぶつけて鳴らし続けた。どうやら拍手をしている様だった。
「此処は…?」
スイは急いでバイオリンをケースにしまった。カロンはスイの準備が整うのを待ち、バイオリンケースとトートバッグを持って立ち上がったスイの前で前方半身を起こすと、ハサミでサッと左側の扉を指した。
スイにはその扉に見覚えがあった。スイが初めての同調の後、目覚めてから謎の声に導かれて館内を彷徨った果てに辿り着いた、あの最後の扉だった。
「開くかしら…?」
恐る恐る扉のノブに手をかける。鍵はかかっておらず、押せば簡単に開いた。中へ入ると目の前のバスルームから水が流れる音が聞こえた。バスルームの扉と床の間の隙間から水が流れ出していた。スイは急いでバスルームの扉も開ける。そこではシャワーや洗面所の蛇口から一斉に水が放出されていた。
「あ…!」
スイは急いで駆け寄ると、水の放出を止めようとした。だが洗面台は自動センサー式で水が出る仕組みのため、止めようがなかった。やむを得ずシャワーだけ止め、ふと後ろを振り返る。そこにはカロンの姿はなかった。
「カロン?」
自分が水浸しの床を歩く音、あるいは洗面台から流れる水の音しか聞こえず、スイは不安を覚えた。
「ねえ、カロン、何処にいるの?」
バスルームを出るとスイはフロア中の廊下を歩き回った。だがカロンの姿は何処にも見当たらなかった。歩き回る内にスイは要と初めて対話したアリッサのラボに行き着いた。
ラボの中は前回訪れた時と同じく、部屋の中央には巨大な水槽があったが、その中は空っぽだった。蛍光灯は全て消えていたが、非常灯だけが時々思い出したかの様に瞬いた。水槽を囲む何台もの機械は停止している様だったが、相変わらず床の彼方此方で手書きのメモやレポート用紙が散乱していた。
スイは大量のメモの中から一枚の写真を拾い上げた。そこには白衣姿の二人の人物が写っていた。一人はアリッサの若い頃のもので、ユリアにも共通する芯の通った自信溢れる顔付きで此方に向かって微笑んでいた。もう一人は要の20年後を想像させる様な何処か冷たい表情の男性研究者、美崎詠司その人だった。それを見てスイは、ユリアがヨーロッパ支部で打ち明けてくれた話を思い出した。
黙って写真を元の場所に戻すと、スイが入って来たのとは別に、大型コンピュータの裏にも小さな扉があるのを見つけた。スイは思い切って奥の扉も開けた。
その中は凍り付く様に寒かった。北極圏で体験した寒さとはまた別物の、肌を突き刺す様な痛々しい寒さだった。部屋中には天井まで届く高さの棚が並び、上から下まで大量の試験管のサンプルや水槽が隙間無く陳列されていた。そして水槽や試験管の中には恐らく人間の物であろうあらゆる種類の臓器、骨、血液、そして顔や身体のパーツがごまんと入っていた。
「…!!」
スイは慌てて扉を閉めた。凍り付く様な温度に耐え切れなくなったからだけではなく、見てはいけない物を見てしまった恐怖に襲われたからでもあった。
謎の冷凍庫の扉を閉めて、一息つく間もなく、ラボの外をロブスターが通り過ぎるのを見た気がした。
「待ってカロン!」
スイはラボの外を飛び出した。カロンはラボから少し離れた別室の前で立ち止まる。後から追いかけて来たスイが扉の前に立つと、扉はスイを待ち構えていたかのように自動で開いた。
「テタルトだわ!」
扉の奥にはテタルトの巨大な頭部があった。見た直後に頭部だけが床に置かれているのかと思ったが、そうではなく、床の下が深いプールになっていてその中に胴体が入っているのだと分かった。
「此処にアバターがいるのなら、カプセルの部屋もこの近くにあるよね…」
スイはテタルトのプールを後にして、同調する為の部屋を探した。その後をカロンも短い脚を駆使して追いかけて来る。
歩き回った末、デフテロのカプセルの部屋のと同じ扉を見つけた。迷わずにその扉を開く。その中にはデフテロの物とは形の異なるカプセルらしき装置が、底の浅いプールの中央に斜めに置かれており、装置の下半分はプールの水の中に浸かっていた。
「これもタラッサの仕業なの?」
そう呟いたスイの傍らにカロンがステュクスと思しきあの大きな水生動物を伴ってやって来た。
「スイ様、これはタラッサの仕業ではないようです。元からこうだったそうですよ」
水生動物、ステュクスは落ち着き払った声で告げた。そしてそう言いながら部屋の隅にあったロッカーの前に立つと、
「これがいわゆる同調の為の衣装なのですね?」
と、要のスーツを取り出した。
「そう。それを来て、手首と足首にシレクティスを装着するの」
ステュクスは水生動物から人間の姿に変化した。先程よりもやや大きめな気もしたが、それは要のスーツのサイズに合わせた体型にしたかららしい。
スーツを持ったまま立ち尽くしているステュクスに、スイは着方を教えてやった。自分が初めて同調用のスーツを着た時のフェイやユリアも、超常的な存在に対して祈る様な思いだったのだろうかと想像しながら。
「これでよろしいでしょうか?」
「ええ、それで大丈夫。そしたらね、あのカプセルの中に入るの。でもあのカプセルは移動式じゃないはずだから、私が外からカプセルを起動してテタルトと接続させるね」
ステュクスははい、と静かに頷いた。そこでスイはプールの中へ入ってカプセルに近寄り、上方部分にあったスイッチを見つけた。デフテロのカプセルと勝手が違っているので、恐る恐るではあるが、スイッチを入れてカプセルのハッチらしき蓋を開けてみると、その中は水が溢れるすれすれの所迄満ちていた。
「これじゃ中に入れないわね…」
「いえ、スイ様。大丈夫ですわ」
そう言うとステュクスは一瞬にしてカプセルの中へ入って行った。まるで氷上のペンギンが海中へ飛び込んだかの様にスムーズであっという間の事だった。
驚いてスイが中を覗き込むと、水の中であるにも関わらず、彼女の声がクリアに響いた。
「こちらの準備は出来ております。スイ様何時でもどうぞ」
そこでスイはハッチを閉め、すぐ隣の操作室に入った。何度かチーム7で見学した時の記憶を頼りにコンピュータを起動させ、要のコードを打ち込む。するとパスワードの入力画面が浮かび上がった。思いつくまま入力しては要求を跳ね除けられる。正規ルートが駄目なら、と試しにアイーシャから貰ったIDを使って検索し、そこから裏口から入る方法を突き止めて実際にアクセスを成功させた。
カプセルに電源が入る音がして、管理用モニターが一斉に開いた。
「テタルトと繋がったみたいなんだけど、どうかな? 」
スイの問いかけにステュクスは答えなかった。だがモニター上の数値は確実に起動状態を示すレベルまで達し、テタルトを内から突き動かす波を起こしている事を示唆していた。
ネオ・ムセイオンから遥か離れた太平洋の海上にいたタラッサ=要は、突然全身に電流が走る様な痺れと痛みを感じた。獣人達は要の変化に気付く事なく前進し続けている。
「…何だ?」
その苦痛はますます強まり、タラッサ=要は耐え難い感覚に顔を歪ませた。
「…まさか」
考えられるのは自身の魂の最初の器、そして其処へ置き去りにして来た、この肉体の本来の持ち主である魂の戒めが解かれる事だった。
「彼奴等め…!!」
タラッサ=要は怒りに満ちた表情で獣人達に号令を下した。
「お前達は最果ての陸地に居られる黄金時代の王の元へ行け。妾は傀儡を滅ぼしに詩神達の城塞へ戻る。例え妾がお前達の元へ戻らなくとも、王が必ずやお前達を新しい御代へと導くだろう」
獣人達=テルキーネスは雄叫びの様な咆哮を海中に響き渡らせた。




