71章
声を聞くなり、スイは驚いて後ろを振り返った。するとスイのすぐ真後ろを流れていた水が筍の様にニュルニュルと伸び、何やら生き物の姿を形造った。その姿は、もしこの場にニックがいたのなら、オブルチェヴィクティスかエルギネルペトンと云う古生物の名を即座に上げていたであろう。恐竜と呼ぶには小さいが、新生代の爬虫類両生類等と比べたらそこそこ大きい代物だった。
「私を助けてくれたのはあなただったの…?」
声の主はツルンとした顔をスイの方を向けた。爬虫類や両生類にしては珍しく大きな両目をしていた。その中央に鎮座している瞳は黒々と潤んでいたが、微かな光を反射し青っぽくも見えた。
「はい」
その声は紛れもなくスイがバスの事故現場で聞いたものと同じ声だった。
不思議な水生動物の出現を苛立ちながら見ていた要は小さく吐き捨てる様にその名前を口にした。
「…ステュクスか」
「タラッサ、これ以上の狼藉は許しませんよ!」
「貴様も妾の邪魔立てするのか?実に嘆かわしいな」
「貴女は度が過ぎました。我が父に無断で魂を入れ替えるなんて…!」
「この器の譲渡は妾と彼の者の間で正式に取り決めた契約によるものぞ。たとえ貴様であっても反故にする事は断じてならぬはずだが?」
「私や我が子達の力を無断で使う事は誓いの内に含んでおりませぬ!!」
「ビアーとクラトスの手助けを欲したのは妾ではない。彼の者だ。妾はただ、大いなる流れの向きをほんの少し変えたのみ。妾達眷属が全て1つの流れに連なる事が貴様等の徒となったようだのう」
要はカラカラと声高らかに笑った。スイはステュクスと呼ばれた水生動物の後ろから、消え入りそうな声で尋ねる。
「それじゃ美崎君の心は何処へ行っちゃったの…?」
「それは知らぬ。仮に知っていたとしても貴様等には教えてやらぬ」
そう吐き捨てる様に言い放つと、要は笑いながら踵を返し、トンネルの奥の闇の中へと溶け込む様に姿を晦ました。要の後を追う様に獣人達も同様にこの場から消えて行った。
今のやり取りは何だったのだろう…と思いながら、要が去って行った方向を呆然と見つめているスイの背後から、救急車のサイレンが徐々に近付いて来た。ユリアのエマージェンシーモードの信号をキャッチしたレスキュー隊がやっと来たのだ。
ステュクスはスイの方を向き、低い声のトーンで言った。
「スイ様。私はタラッサを追います」
「追うって、貴女には彼等が何処に行ったのか分かるの?」
「はい。とは言っても、私は彼女の気配を感じ取っているだけですので、正確ではありませんが」
そう言うとステュクスはその姿を両生類から一気に進化させ、あっという間に人間の女の姿へと変身した。
「スイ様、どうか私に人間達がアバターと呼んでいる物と一つになる方法をお教え下さい」
「えっ?」
「セイ様が此処に居られない今、人間達の創造物について知る方法はスイ様に直接お伺いする他にないのです」
そう言ったステュクスの両目は、先程の水生動物の姿の時と同様に黒々と潤んでいた。
「…いいわ。ただ、ユリアが救助されるのを見届けてからでもいい?」
「はい」
そう答えるとステュクスはカロン、と流れる水に向かって渡し守の名前を呼んだ。すると、1匹のロブスターが水の流れの中から顔を出した。
「私は先にタラッサの後を追います。スイ様はお役目を果たされましたら、ネオ・ムセイオンの最深部迄お越しください。このカロンが私の代わりに何処へ向かうべきかをご案内致します」
「ありがとう!」
「ただし、スイ様。どうかスイ様のお姿をこれから来る人間達の目に触れさせぬ様、お気をつけ下さいませ」
「何故?」
「人間達に見つかれば、その怪我人だけではなく、スイ様の事も此処から連れさらわれてしまいますから…」
そっか、とスイは納得した。元々はバスの事故現場から脱出したら、ネオ・ムセイオンへ行けと言われていたのをこんな形で遠回りしてしまっていたのだ。また病院へ行ってしまったら、再び大事故が何処かで起こりかねない。
「それで、どうやったらレスキュー隊に見つからずに済むかしら?」
そう尋ねたスイの足元を囲む様に、カロンが大きなハサミの先端で地面に円を描いた。その円からシャボン玉の様な1つの泡が膨れあがり、スイとカロンをその中に内包した。そのまま泡は地面を離れると風船の様にふわふわと宙に浮かび上がった。
「スイ様。その中にいらっしゃいましたら、人間達の目につくことはありません。また、大声を上げても外に聞こえる心配もございませんよ」
そう言うとステュクスの全身は熱せられた鉄板上の氷塊の様にあっという間に溶け、流れている水との見分けが付かなくなってしまった。
ステュクスが姿を消して間もなく、救急車が1台とレッカー車が1台やってきた。数人のレスキュー隊員がユリアを助け起こす。
「スイは…?」
隊員の呼び掛けにより目を覚ましたユリアは、開口一番に自分と一緒にいた少女の所在を尋ねた。
「いや、此処にいたのは貴女だけですよ?」
「嘘、私と一緒に13歳位の女の子がいたのよ!」
「貴女は転倒して頭を強く打ち、そのせいで記憶障害が出ているのかもしれない。病院で精密検査を受けましょう」
「でも…」
ユリアの身体は応急処置の後毛布に包まれ、ストレッチャーに寝かされるとそのまま救急車内へ運ばれていった。転倒したバイクもレッカーされたが、数人の警備スタッフと思われる人物が事故現場について何か調べている様だった。
スイはその様子を終始カロンのシャボン玉の中から見下ろしていた。ユリアに申し訳ない気持ちもあったが、先ずは彼女の生命が失われずに済んだという安堵感の方が強かった。
そんなスイの傍らでカロンがハサミの先をカツカツと鳴らす。
「ああ、ごめんなさい。もう行ってもいいよ」
恐ろしく落ち着き払ったスイの言葉を受けて、シャボン玉はトンネルの天井すれすれの位置を緩やかに移動した。
シャボン玉の中ではスイはほぼ中心部分に浮かんでいた。それは無重力で浮いていると云うより、スイ自身がシャボン玉と云うパズル全体の中のひとピースであるかの様にピタッとそこに当てはまっていた。
その一方でカロンはシャボン玉の底辺、スイの足元辺りで自由に動き回っていた。時々口から泡を出す様子を見せていたが、それはシャボン玉を補修するものであった。
この奇妙な泡の小舟はスイを巨大な科学研究機関の入口の前迄導いた。だが既にタラッサがあの獣人達を率いてこの場を襲撃でもしたのか、ゲートは破壊され、天井や壁からは水が滴り、床中には水溜りが出来ていた。それは洪水被害に遭った廃屋跡の様でもあった。
「カロン、これもタラッサがやった事なの?」
案内人は無言だった。
シャボン玉はそのまま建物内に入った。館内は夜だった為か、在中していた者は少なかった様だ。否、人の気配が不気味な程皆無だった。
「皆、無事だったのかな…?」
スイの心配を他所にシャボン玉は館内のほぼ中央を占める広い吹き抜け部分に出た。
「え?」
シャボン玉は吹き抜けから一気に地下へ急降下した。スイの耳の奥が気圧の変化で詰まりそうに感じられた。カロンはスイの方を見ると、ハサミをカツカツと何度も言わせた。
「どうしたの?」
カロンはスイに向かってハサミを擦り合わせる様な仕草をした。
「バイオリンを弾けと言うの?今?」
スイは上手くバランスを保ちながら、シャボン玉に触れないように注意を払いつつ、肩に下げていたバイオリンケースを膝の上に乗せた。そっと蓋を開ける。あれだけの事故に巻き込まれたと云うのに、本体は濡れる事もなく無傷だった。狭い中でやり辛いなと思いながらも、何とかチューニングをし、何を弾こうかちょっと考えていたが、最近オーケストラ部の第一バイオリンパートのメンバーが練習の休憩時間中に弾いていた旋律を何となく思い出して、即興で弾いてみた。それはJ.マスネのタイスの瞑想曲だった。トートバッグが邪魔くさいなとか、所々記憶が曖昧だとか、決してスイの中では満足の行く出来栄えではなかったが、甘美で叙情的なメロディにカロンはうっとりと聞き惚れている様子だった。そして、スイ自身もまた、バイオリンの音色で耳奥の詰まりが取れたかの様にすっきりとした気持ちになっていた。
シャボン玉は何時しか吹き抜けの底辺、最下層のフロアに到達した。




