70章
ユリアとスイは人が激しく往来する病院の救急外来の廊下で再会した。時刻は深夜近かった。
「スイ、ごめんね。遅くなっちゃって」
「ユリアさん、大丈夫です。私の方こそ、お忙しい中来て貰ってすみません。どうしてもユリアさんに会いたかったんです」
ユリアは廊下のベンチにバイオリンケースを固く抱き締めて小さくなって座るスイを見下ろし、彼女の様子を頭から足の先まで具に眺めた。最後にスイと別れてから2週間位しか経ってないと云うのに、彼女は酷くやつれ、そして何かに怯えている様に見えた。
「街中で道路下を通る水道管が一斉に破裂したんでしょう?ニュースで知ったわ。でも、まさか貴女がその場にいるとはね」
「…」
「兎に角貴女が無事で良かったわ。でも、どうして私に会いたかったの?」
「ユリアさん、あのね。私が乗ってたバスが横転した時、誰かが私を瓦礫の中から出られるようにしてくれたの。その人の顔は見れなかったんだけど、私、その人に事故現場から脱出したら、ネオ・ムセイオンに行く様に言われたの。ユリアさん、信じて貰えないと思うけど」
ユリアはそれを聞いて目を丸くした。
「ネオ・ムセイオンにタラッサがいるんだって。そして私が今日巻き込まれた事故は、タラッサが起こした事だって聞いたわ。ユリアさん、私が去ってからネオ・ムセイオンで一体何が起きてるの?」
タラッサ、とユリアは口ごもった。ギリシャ語で海を指す言葉だ。だが残念ながらスイが言っている事はちっともユリアには理解出来なかった。
「スイ、リュケイオンでジェシカから何か聞いたの?ネオ・ムセイオンは貴女が去る前と変わらないし、もし変わった事があっても、退所した貴女にそれを教える事は出来ないわ」
スイはユリアが視線を逸らしたのを見て、嘘をついているのだと何となく察した。
「それはそうと、センターには連絡したの?」
スイは首を横に振った。ユリアは黙ってスマートウォッチを起動させると、即座に電話をかけた。
「…夜遅くに申し訳ございません。ユリア・G・グールドです。ええ…」
ユリアが話をしている相手はどうもマルタ・ルゴンのようだった。スイとユリアが街中で偶然会い、昔話に花を咲かせていた所で今日の水道管破裂の事故に巻き込まれ、共に救助されて病院で診察を受け、その後に警察の事情聴取を受けていたら、こんな時間になってしまったので、今晩は彼女を自宅に泊まらせる、と言った様な内容の事を伝えていた。スイはセンターに戻らなくてもいい事に内心ホッとしていた。
「ユリアさん、ありがとうございます」
「こういう事はちゃんとしておかないとね。さて、せっかくだから貴女の話も聞いとこうか」
ユリアはスイにヘルメットを渡し、愛車の後部座席に乗せた。光の少ない夜の道を静かに駆ける。スイは体に伝わるバイクの振動と全身に浴びる空気の感触を心地良く思いながら、ネオ・ムセイオンにいたのが遥か昔の事であったかの様な気がしていた。
「今夜は貴女の話を聞いてあげるから、全部話したら、明日はセンターに戻るのよ?」
スイは静かに頷いた。バイクはヴァーシポリスとネオ・ムセイオンを隔てる川にかけられた大橋を渡ろうとしていた。その先にあるトンネルへ入ろうとする矢先に、スイがふと川の水面に視線を投げかけると、水面に奇妙な漣がいくつも生じている事に気が付いた。疑問に思って中でも特に大きかった漣の一つに注目していると、アシカ科の獣の頭部が中から現れた。その2つの目は確かにスイを凝視していた。
「あれは…?!」
「どうしたの?」
「ユリアさん、川に何か生き物がいた!」
「そんな訳ないわ。これは人工的に造られた地下運河だもの」
ユリアが笑って答えると共にバイクは颯爽とトンネルの中へ突入した。トンネル内にバイクの走行音が反響し、会話を暫し遮った。
「ユリアさん上!!」
スイが叫ぶ声を聞いた気がした。ユリアが前方に注意しながら走行しつつ、目線を上に向けると、トンネルの天井が急に崩落し、コンクリート片と共に大量の水が滝となって注ぎ込んだ。
「…!!」
ユリアは咄嗟にブレーキをかける。だが、濡れた道路にタイヤはスリップし、制御を失った車体は独楽の様に弧を描きながら転倒した。転倒した勢いで、ユリアとスイの身体は振り飛ばされた。スイの身体が地面に打ち付けられた時、偶然にも持っていたスイのトートバッグがクッションとなり、直接の衝撃を免れる事が出来た。だが、ユリアの方はコンクリートの壁面に強く叩きつけられて、低いうめき声を上げた。そして壁面に血の痕跡を付けながら、ズルズルと地面に流れる様にして倒れてしまった。
「ユリアさん!」
スイは起き上がると、倒れたまま動かなくなったユリアの元に駆け寄った。水がトンネルの出口に向かって流れて行く中を走ったので、靴に水が染み込んで、足が重く感じられた。だがスイは無我夢中だった。スイは呼びかけ続けながらユリアの左手首を掴むと、スマートウォッチのエマージェンシーモードを発動させた。電子音がトンネル内に鳴り響く。これで助けが一刻も早く此処へ来てくれれば。
じわりじわりとユリアの服が水で濡れ、体温が失われようとしていた。スイはユリアの左手を握りしめた。その手は恐ろしく冷たく、スイの不安な気持ちを助長させた。
水が流れる音と電子音が響き渡る中、天井から流れ落ちる水の裏側から、ヒタヒタと何者かが近づいてくる気配がした。スイはユリアの手を握ったまま、彼女を庇う仕草をし、謎の気配がする滝の奥を見つめた。
水の裏側から姿を現したのは、バスの事故にも出没したあのアシカの頭をした奇妙な獣人達の群れだった。
「私達に近づかないで!」
無言でスイ達を見下ろす獣人達に向かって、スイは 大声を上げた。その声に驚いたかの様に獣人達はビクッとして動きを止めた。相互に睨み合う硬直状態が暫く続く。
「退け」
獣人達の後ろから、聞き覚えのある声がした。
「…美崎君?」
スイ達を囲む獣人達が静かに動き、その後ろから現れたのは他でもない要であった。ジェシカが言っていた様に、要はまるで着衣水泳の後に陸に上がったかの如く、全身から水が滴り落ちていた。
「やはり一筋縄では行かぬ様だな。貴様は」
確かにスイが聞き慣れている要の声や口調とは微かに異なっていた。それでもスイは要の姿を前にして一握りの勇気と強さを取り戻しかけていた。
「美崎君、何でこんな事をするの?」
「復讐の為だ。人間共に対するな」
「復讐?美崎君何を言ってるの?」
「貴様こそ世界の秩序を人間共に搔き乱されて、何も思わぬのか」
「思わないわ。それより私達をこんな目に遭わせたのが美崎君なのだとしたら、私はそっちの方が凄く悲しい」
「貴様は受肉して思考が人間共に寄り過ぎている様だな。だが己が人間共とは全く異なっている事も自覚しているのだろう?」
「違ってるから何だって言うの?些細な違いがあったって、時間を掛けて歩み寄れるのは人間同士だから出来る事よ」
「時間を掛けた所で、その時が訪れれば、貴様の理想なぞ単なる幻に過ぎないと悟るはず」
「そんな事ない!!」
スイの反論を聞いて要はカラカラと笑い声を上げた。少なくともスイは要が笑う所を見たのはこれが初めてだった。そして笑いながら要は言った。
「其処までして貴様が守ろうとしている人間共は、貴様に対して何をした?」
要の姿をした何者かに指摘され、スイの脳裏には最近のセンターで受けた嫌がらせの数々や、リュケイオンでの孤独等がフッと思い浮かんだ。
「貴様は人間共と交わって生きて行く事等、到底不可能なのだ。その女を置いて妾と共に来い」
「何処へ連れて行くつもり…?」
「テルキーネス達の島だ」
「連れて行ってどうするの…?」
「妾は何もせぬ。貴様は島で貴様の悲願を成就すれば良かろう」
「…悲願って?」
「貴様は本当に何も記憶しておらぬのか?…まあ、よい」
要はスイに背中を向けると、獣人達に命じた。
「お前達、この娘を我等の根城へ連れて行け」
要の命令に獣人達は一瞬怯む様子を見せた。だが、要の命令が彼等にとっては絶対なのか、じわりじわりとスイ達に向かって距離を狭めてきた。だが、あと2、3メートルという所で動きを止めた。それは自ら静止したと云うよりも、まるで透明なガラスの壁に遮られた様でもあった。
獣人達の異変に要もまた気付いたのか、離れかけていた歩みを止め、スイ達の方を凝視した。
「…貴様、ノモスを敷いたな!!」
要は右腕を振り上げる素振りを見せた。その動きに合わせ、道路を流れ行く水が持ち上がる。水は波となってスイ達を覆い被さろうと押し寄せた。
スイは咄嗟に大波からユリアを守ろうと、波に背中を向けかけた。
「鎮まれ!!」
スイのすぐ真後ろから凛とした女の声が響いた。バスが横転した時、スイにネオ・ムセイオンへ行く様に仕向けた、あの声だった。




