69章
「話があるんだけど」
それはスイがフォスターケアセンターに入所して半月程経った頃だった。リュケイオン内で姿を見かけても一切声をかけるどころか、目を逸らし続けてきたジェシカが、スイにグループワークの直後、突然話しかけてきたのである。
「ちょっと顔貸して」
スイは軽く頷いた。タブレット端末をバッグに詰め込み、バイオリンケースを持つとそのままジェシカの後について行った。
ジェシカとスイはリュケイオンの中でもほとんど人が行き来しない、ギュムナシオンの裏に来た。建物の中では何か団体球技をやってるらしく、ボールが床上を跳ねる音や、複数人が走り回っている足音や、それに合わせるかの様に大勢の応援や歓声が聞こえて来ていた。ジェシカとスイは少し距離を置きながらも、並んでギュムナシオンの壁にもたれ、お互いの方をほとんど見ずに、ランナー達が周回しているグラウンドの方を眺めていた。
「ネオ・ムセイオンの皆は元気?」
「…まあね」
ジェシカは自分から呼び出してきたくせに、なかなか本題について話そうとしなかった。
「それで、ジェシカ。話って何?」
「テタルトのパートナーの事よ」
「美崎君がどうしたの?」
「あいつ、最近おかしいの。人が変わっちゃったみたい」
「彼には元々そう云う所があるわ。私も、彼に初めて会った時は『私の事を知っている』って言ってたのに、 次に会った時は『知らない』って言われたりしたもの」
「じゃあ、じゃあね。あいつの人格で女性になった事ってある?」
「女性?それは知らないわ」
「そう…」
ジェシカがポツリポツリと話し始めたのは、スイ達が帰国して7日が経った頃、ちょうどスイがネオ・ムセイオンを去った直後の事だった。
要はメキシコエリアから来たギガスとの戦いの後、7日間カプセルの中で昏睡状態に陥っていた。
だが、8日目にして何事もなかったかの様に目覚めた要は、口調や言葉遣いが急に女性っぽくなったと言う。それだけならともかく、英語以外の言葉、恐らくラテン語かギリシャ語だと思われるが、外国語で喋り出す事もあった。その異変に気がついたグールド所長は、ヨーロッパ支部に行っている間に要の身に何かがあったのだと疑った。だが、王理事やコヴァルスカ理事、それにドクターフューリーからの報告では、滞在中はほとんどバスルームに引きこもるか、スイの病室にいるかのどちらかで、ほとんど他の誰かと接していた事はなかったと証言していた。
「あいつ、目覚めてから一度も同調テストや地上調査には参加しなかったんだけど、3日前、私が同調を終えてカプセルから出て来たところを、ロッカールームで待ち構えていたの」
ジェシカによると、彼女が着替えて帰ろうと女子ロッカールームに行った所、室内で全身ずぶ濡れの状態で要は黙って立っていた。人を呼ぶ、とジェシカが脅すと、要は虚ろな目をしていたのが突然形相が豹変し、ジェシカの喉元を右手で掴むと、そのままジェシカを体ごとロッカーの扉に叩きつけたと言うのだ。
「不動の掟の器は何処へやった?」
「…知らないわよ!!」
ロッカーの扉に押し付けられ、ジェシカの両足は宙に浮いたまま、息が止まりそうな状態で質問攻めに遭った。要の尋問は拷問に近かった。ジェシカは喉元を押さえつけられて意識が朦朧とし、要の手がジェシカを解放した時には、ジェシカは失神した後だった。
「あの時は何かとても恐怖を感じたわ。不動の掟の器って何なの?」
「…分からないわ」
スイは要の行動に内心驚きつつ、兄なら何か分かるんじゃないだろうか、と考えていた。
「私の知っている美崎君は、とてもそんな事するような人じゃないと思う。…ジェシカ、その事は所長には伝えたの?」
「私の口からは伝えてないけど、話は聞いてるんじゃないかしら」
ロッカールームで倒れているジェシカを発見したのは、偶然その場を通りがかったユリアだったらしい。ジェシカの意識が戻った時には、既に要の姿はなかったが、ユリアに何があったのかを尋ねられ、一部始終を話したのだと言う。
結局、ジェシカへ何も助言出来なかったものの、スイの中には彼女と別れてからもずっと要の事が気にかかり続けていた。要の中にはスイの知らない人格がどの位潜在しているのか。スイの知る美崎要の人格は何処へ行ってしまったのか。悲しいかな、今のスイの心の悩みに応えてくれる存在は一人もいなかった。
事件は唐突にやって来た。
それはジェシカとスイが会話した3日後の事だった。スイはオーケストラ部の夕方からの練習の後、バイオリンを工房に預けに行く途中のバスに乗っていた。バスの中は通勤や通学途中の人でそこそこ混雑していた。バスの中でスイはタブレット端末で読書に耽っていた。彼女が今読んでいるのはカレワラ。定例演奏会に向けてJ.シベリウスの交響曲第2番ニ長調を練習している事もあり、作曲家とその作品へのアプローチの為に読み始めたのだが、スイは純粋にフィン人独特の世界観と内容に親しみを持ちながら読書を楽しんでいた。
ちょうどスイが第36章を涙のうちに読み終えようとしていた時だった。突如としてバスの車体が上下に揺さぶられた。席についていた乗客は皆、その衝撃で腰が突然宙に浮いたと勘違いした程だった。
スイもまた、聞いていた交響曲が音飛びし、身体に衝撃を覚えた事で、急いでヘッドホンを耳から外して何事かと辺りを見回した。
バスの外では街の中を水柱がいくつも吹き上がっていた。その場に居合わせた人々が叫び声を上げて逃げ惑い、或いは乗り物の向かう先を無理矢理に転換させてその場を離れようとし、交差点では大混乱が起きていた。
乗客は降りて避難するようにアナウンスが流れ、乗り合わせていた客達もまた、乗降口に近い者から逃げ出していた。
スイはこの光景を目の当たりにして、咄嗟にバイオリンケースを胸に抱え込んだ。押し寄せて来る大量の水に、スイは渡欧する途中で立ち寄った海底コロニーにて感じた恐怖心を思い出した。その恐怖のあまり声を出す事すら出来なかった。
「君も早く降りろ」
降りようとしてる乗客の内の誰かの声で、自分もこの場を急いで離れなければならないという事にやっと気付かされ、スイは震える足で立ち上がりかけた。
突然にしてスイは足元を通じて強い衝撃波を全身に味わった。一瞬の出来事に何が起こったのかも分からなかったが、視線を動かしてバスが横転した事を悟った。顔に生ぬるいものが当たる。それは血だった。ガラスの破片やねじ曲がった金属製の手摺が、自分のすぐ目の前にいる人の身体を容赦なく貫いていた。
「助けて!」
目の前に死を突き付けられ、スイは思わず叫んでいた。
「嫌!死にたくない!」
スイは何とか横転したバスの中から抜け出そうと体を捩らせた。横転した時、座席部分に背中から落ちたのが幸いした。だが、スイがいる空間が積み重なる死体の山に押し潰されるのも時間の問題で、どうしようかと思考が止まりかけた。
「落ち着いて聞いて下さい、スイ様」
パニックに陥りかけたスイの耳元で女の声がした。スイは声が聞こえた方へ頭を動かそうとしたが、そこにはただの虚無しか存在しなかった。
「私を助けて…」
「ごめんなさい。直接私が貴女を助ければ、貴女はもう一度記憶を失う事になります」
「え…?」
スイは声の主をよく見ようと頭をもたげた。
「スイ様。私は我が父の命令により、貴女に再度触れる事は出来ません。ですが、貴女の周りを囲む物を動かす事は出来ます。うまく此処から脱出したら、どうかネオ・ムセイオンに向かって下さい」
「どうして?私はもう彼処の関係者ではないのよ?」
「この事件を巻き起こしたのはタラッサ。彼女はネオ・ムセイオンにいます」
「タラッサ?それは誰なの?」
「私の口から説明申し上げるよりも、直にお会いになられた方が早いでしょう」
スイの頭上から光が射した。その方向に顔を向けると、バスの扉がどかされるのが分かった。
「ねえ、貴女は誰?どうして私の名前を知ってるの?」
スイはガラスの破片や金属片が散らばる座席部分から、這うようにして抜け出した。そして血に染まった乗客達の体を押しやり、グシャグシャになったバスの車体の中から何とか外へ出る事が出来た。
そこでスイが目にしたのは何とも奇妙な光景だった。何人ものトドやアシカの様な頭をした者達が横転したバスを取り囲んでいたのである。彼等はまるでギガスを小さくした様な、不気味な異様さを放っていた。そしてバスのすぐ真下の地面から湧き出していた水柱の飛沫を浴び、黒いグリグリとした目玉でスイを凝視した。そのまま半獣人達は一斉にスイに向かって押し寄せてきた。
「嫌ー!!」
「スイ様、こっちです!」
先程スイを助けようとした女の声がした。スイは懸命に声の主を探そうとしたが、その姿はその場にも何処にも見えなかった。
「何処にいるの?」
スイは声が聞こえた方に向かって走り出そうとした。死者の血を浴びてはいたが、彼女は無傷だった。
「生存者がいたぞ!」
いくつも吹き上がる水柱を避けるようにして、スイの目の前にトラックに乗った消防士達がやって来た。
「怪我はない?」
降りてきた消防士の1人に尋ねられ、全身を寒さで震わせながら、スイは黙って頷いた。
「他に生存者はいる?」
スイは不安気にバスの残骸に視線をやった。そこにはあの悍ましい獣人の群れはなく、水飛沫を浴びる金属とガラスの破片と無惨な死体が投げやりに積み重なるのみであった。
スイは頭から毛布をかけられ、そのまま救急車に乗せられた。怪我はなかったが、連れて行かれた病院で医療スタッフに体調や精神面等、色々な事を尋ねられた。
「貴女のお父さんかお母さんに来て貰おうね。連絡先は分かる?」
スイはユリアの名前と連絡先を告げた。




