68章
オーケストラの入団テストはあっという間に終わった。スイは若者が去って行ったあの後、懸命に正常心を取り戻し、オーケストラ部のディレクター、弦楽パートのコーチ、バイオリンのコーチ、そして指揮者役とコンサートマスター役の生徒の前で難なく演奏をこなした。伴奏役のピアノ奏者の些細なミスでさえ、機転でスイがカバーした位だった。普段ならば演奏開始後2〜3分で終了を告げるはずのディレクターが、あまりの出来栄えに1楽章が終わる迄声を上げるのを失念していた程だった。
「合格だ」
ディレクターであるアルトゥール・ダムロッシュは一言そう告げた。弦楽コーチのシャロン・ボッセは驚いた顔付きでダムロッシュの方を見た。彼女はテストが始まる前に、彼が「たかだか習い始めて数ヶ月の人間をメンバーに入れるなんて」と発言し、バイオリンパートには十分メンバーがいる事もあって、応募者をテストにパスさせる事はないと思っていたからだ。バイオリンパートのコーチであるベルナルド・ヘスは興味深そうにスイの様子を見守っていたが、ダムロッシュの宣言を聞くと、そのまま席を立ち、スイの前に立つと彼女に向かって右手を差し出した。
「ようこそ、我らが楽団へ」
「…ありがとうございます!!」
指揮者役とコンサートマスター役の生徒達は不服そうな面持ちで、二人が握手する様子を眺めていた。
「気に入らんな」
「ああ」
こうしてスイはオーケストラ部の第2バイオリンのグループに入った。そこは演奏する曲によってバイオリニストでもビオラを担当する事もある、流動的なグループでもあった。スイはそれでも入れた事が嬉しかったので、少しでも他のメンバーの迷惑にならない様にと、空き時間を作っては音楽室へ通った。それは練習の為でもあったが、テスト前に会ったあの若者にもう一度会えるのではないかと云う期待もあった。だが、同じグループのメンバー達や第1バイオリンのグループのメンバー達、そしてコーチのヘスでさえも、スイが会った若者の存在は知らない、と答えた。
フォスターケアセンターは元々身寄りのない子供達が里親を見つける迄の間を過ごす為の施設と云う事もあるため、子供が一つの特技を伸ばす事を奨励していた。そのため、スイが普段の勉学や奉仕活動の合間にバイオリンの練習に打ち込む事には、ほぼ口を出す事はしなかった。それがきっかけで里親が現れる事も結果としてあるからだ。だが、同じクラスの子供達の中には、それを気に入らなく思う者も存在していた。
スイがその存在に気がついたのは、リュケイオンの音楽室で練習しようとバイオリンをケースから取り出した時だった。弦が4本とも切れていたのだ。しかも2日続けて。
スイは1度目を発見した時は自分の弾く技術が弦に負担をかけていたのかと思い、その日は楽団で所有している楽器を借りて練習した。弦が切れたバイオリンは、弦をうまく張れる自信が彼女にはなかったので、帰る途中で修理工房に寄って交換してもらい、そのままセンターにいる間はケースから出さずにずっとしまっておいた。
だが、2回目となると流石におかしいと感じた。この日もまた、スイは楽団の楽器を借りて練習する他なく、父の形見のバイオリンは工房に預かって貰う事にした。センターへ持ち帰っている間に、大切なバイオリンをこれ以上傷つけられたくないと強く思ったからだ。
スイはセンターに戻ると、エミールのタブレット端末を自身のベッドの枕の後ろに隠し、そこからスイがいつもバイオリンケースを置いてある場所をビデオ録画する様に仕掛けておいた。そしてそのまま素知らぬ顔で夜を過ごした。
翌日、スイは録画の記録を見てみた。スイが部屋で過ごしている間は、相部屋の他の女児達が普段どおりに部屋を出入りし、おかしな素振りもなく生活している様だった。だが、ちょうど夕食の時間帯で部屋に誰もいない時、部屋に誰かが入って来て、電気を点けずにスイのバイオリンケースの定位置辺りを探している様子が映っていた。スイは映像をコマ送りにしてその人物を確かめようとしたが、暗くて分からなかった。
そこでスイはその日は早目にセンターを出て、工房に寄ってからリュケイオンに行った。そのままグループ実習とオーケストラの練習をし、再びバイオリンを工房に託すと、そのケースだけを持って帰って来た。ケースを相部屋の中の定位置に置くと、夕食の時間にこっそり2段ベッドの下に隠れ、犯人が来るのを待ち伏せした。
隠れて20分程経った。音を立てないように静かに部屋のドアが開く。誰かが部屋の中に入り、バイオリンケースに手をかけた瞬間にスイはベッドの下から飛び出した。
「何すんのよ!!」
スイは無我夢中で入口のドアを閉め、施錠し、部屋の電気を点けた。そこにいたのはスイの知っている顔だった。
「…ネル」
「……」
「私のバイオリンをどうするつもり?」
「……」
「バイオリンの弦を切っていたのは貴女なの?」
「そうだよ」
「このバイオリンが私にとってどんなに大切なものか、貴女は知っていると思っていたわ」
「弦を切ったのは悪いと思ってる。だが、あんたに忠告するにはこうでもしないといけなかった」
「忠告?」
「そう。シニアクラスの一部の人間は、新入りのお前を嫌っている。職員やジュニアクラスのガキどもを丸め込んで、お前にあらゆる手を使って嫌がらせして来るよ」
「ありがとう、ネル。心しておく。だけど、ネルやライラが私と昔関わりがあった事で、彼女達の嫌がらせに巻き込まれる事はないの?」
「いや、もう始まっている」
ネルはゆっくりとスイに背中を向け、シャツをたくし上げた。彼女の背中には痛々しい鞭の痕が赤々と残されていた。それを見て思わずスイは顔を歪ませた。
「…分かった。ネル、とても申し訳ない事をしたね。私はどうしたらいい?」
「決して事を荒立てちゃいけない、って言っても、どうせ暴力沙汰になったらまたお前の『守護天使』が発動するんだろ?」
「さあね。ただ、これからどういう嫌がらせを受けるのか私、分からないけど、此処の外でも中でもシカトされるのは慣れっこよ。それよりもネルとライラにこれ以上何かがあれば私、大人しくなんてしないよ?」
ネルはそれを聞くと悲しそうに微笑みを浮かべた。スイは昔からこうなのだ。彼女の強さと実直な性格は、他者によってどうこう変わる物ではない。
翌日、朝スイがベッドで目を覚ますと、何やら鼻につく臭いを感じた。しかも自分のすぐそばからだ。
なるべく枕の上から頭を動かさない様に視線だけを左右に動かしてみると、枕カバーに何やらジェル状の物体が付着している事に気がついた。
「…?!」
スイは起き上がって枕カバーに付いた物質を何なのか目視で確かめた。液体が凝固しかけているその物質の正体は、その臭いからしてどうも接着剤らしかった。恐らくスイが眠っている間に、誰かが仕組んだのだろう。スイは黙って枕からカバーを外すと、寝間着姿のままリネンルームへ行き、汚れたカバーを手洗いした。
洗ったカバーを洗濯ロープに吊り下げると、そのままバスルームへ行った。そこにいた何人かの女児がスイの方を見ながらくすくすと笑っていた。スイが訝しげに辺りを見回すと、トイレの便器の中に見慣れた下着類や洋服が突っ込まれているのに気がついた。間違いなくスイの服だった。
「貴女達、誰がこんな事したのか見てない?」
くすくす笑っていた女児達は笑うのを止め、スイを睨み付けた。
「何よ。私達が犯人だと言いたいの?」
「そうじゃない事を祈るわ」
「じゃあ私達がやったのだと言ったら?」
「そんな事をして、何がそんなに面白いのか尋ねるわ」
「フン、いい子ぶって。調子乗りやがって、いい気になってんじゃないわよ」
女児達は汚い言葉を吐き捨てるとバスルームを去って行った。スイは黙ってずぶ濡れにされた服を引き上げると、惨めな気持ちでいっぱいになりながら、濡れた服を持ってもう一度リネンルームへ戻って行った。
この朝の出来事はスイの身に降りかかる苦難と災難の序章に過ぎなかった。この後彼女は施設内でのいじめを受ける事になるのである。




