67章
アメリカ大陸に戻ってから、スイはフォスターケアセンターへ移るため、様々な準備や手続きに追われた。同時にエミールシステムの中での等級が基準を満たしたため、リュケイオンに行ってグループ型講義も受けなければならなかった。更にはオーケストラ部の入団テストも控えており、アンディによる特訓を連日受け続けていたので、スイがネオ・ムセイオンを出る日はあっという間に訪れた。
「ドリーさん、短い間でしたけど、本当にありがとうございました」
「いいのよ。私達も貴女と一緒に生活出来てとても楽しかったわ」
「ボニーさんにも宜しく伝えてください。あと、デニスさんとマチウさんにも、また柘榴食堂に食事しに行きますと」
「ええ、ありがとう。貴女も元気でね」
平日の昼間の時間帯で、住人達は全てネオ・ムセイオンに出掛けてしまっていると云う事もあり、スイがドリーの家を出発する際の見送りは、家の主のみ、という寂しいものであった。だが、スイは気にしなかった。何故ならその前夜、住人達によるお別れ会が盛大に催されたからだ。
スイはフォスターケアセンターからの迎えの車に乗り込んだ。元々バイオリン以外は何も持たずに此処へ来た事もあり、荷物は少ないものだった。
車の後部座席から窓の外に顔を出し、スイはドリーに手を振った。彼女の手首にはもうスマートウォッチはない。それは彼女がネオ・ムセイオンの一員でなくなった事を意味していた。何も思い残す事はなかった彼女だったが、唯一心残りだったのは、ヨーロッパから戻ってから一度も要と会わず、彼からの連絡さえもなかった事であった。
スイは後部座席でエミールのタブレット端末を取り出した。彼女は一つのメモをポケットから引っ張り出し、アクセスしたウェブサイトにそのIDとパスワードを入力した。それはネオ・ムセイオンの一部の研究者のみが使用出来る、全世界のありとあらゆる情報や文献を検索できるというものだった。ちなみにこの専用システムを作ったのは、スイがヨーロッパ支部で会ったチーム4のシモーヌ・オルトだと言う。もっとも、このIDとパスはドリーの家の仲間だったアイーシャがこっそりスイのために餞別代わりに作ってくれたものではあったが。
スイはまず検索サイトでエゴサーチングした。名前、性別、エミールでの等級と成績、デフテロによる活動履歴等の知っている情報に加え、No.59049という聞いた事のない単語が出てきた。次にその謎の番号を検索したが、全く関係のない情報ばかりがヒットした。
「何の番号…?」
続け様にセイの名前を検索する。アサナギ・セイについての過去の記録は全て「抹消済み」とされていた。こちらもまた、No.59049の数字を残して。
念の為、ジェシカ・ガードナー、ニコラス・ウィーラー、ミサキ・カナメ、エマニュエル・ブラウン、イ・テギョンと、スイの知る他のパートナー達の名前での検索もしてみたが、誰もナンバリングはされていなかった。もっとも、要の過去の情報もセイ同様に「抹消済み」とされていたが。
スイが謎のナンバーに考え込む中、車は窓のない灰色の建物の前に到着した。
「今日は、アサナギ・スイさん」
マルタ・ルゴンがスイを出迎えた。
「ネオ・ムセイオンのユリア・グールドさんから連絡を貰ってますよ。あなたはここではシニアクラスに入る事になります」
はい、とスイは答えて、マルタについて建物の中に入った。スイはマルタがとても威圧的で嫌な感じがした。それは彼女がフルヴィエールで会った信者達に近い印象だった。そして無機質で色彩に乏しい廊下を進み、大講堂へ案内された。
「皆さん、席につくのです」
マルタが手を叩くと、散らばっていた女児達がワラワラと一箇所に集まってきて席についた。
「今日からシニアクラスに入るメンバーを紹介します。アサナギ・スイです。皆さん、彼女に色々と教えてあげるように」
ほら、とマルタに背中を軽く叩かれ、スイは宜しくお願いします、と答えた。
こうして幕を開けたスイの新生活は、とても単調で、不自由で、実に退屈極まりないものであった。毎朝、苦痛でしかない礼拝から始まり、エミールでの学習とリュケイオンでのグループ実習、そして奉仕活動という名目での無賃労働。スイは大好きなバイオリンを手にする機会が減った中で、オーケストラの入団テストに臨まねばならなかった。
スイはフォスターケアセンターに入所して3日後、実技テストを受ける為にリュケイオンの音楽室を訪れていた。指定されていた時間からは1時間も早かったが、少しでもバイオリンを弾いている感覚を取り戻して置きたかったのだ。
「やあ、君」
突然音楽室の入口で呼びかけられ、スイは練習するのを止めて後ろを振り向いた。そこには一人の若者がいた。
「こんにちは!」
スイはその若者に見覚えがあった。何処で会ったのかを懸命に思い出そうとしていると、先に若者の方から話しかけてきた。
「今日はアリアを歌わないんだね」
その言葉でやっと、以前スイがネオ・ムセイオンからのバスの中でパミーナのアリアを口ずさんでいた時に出会った若者だと気がついた。
「私、これからオーケストラ部の入団テストを受けるんです」
「そう。パートはバイオリン?」
「はい」
「じゃあ僕と同じだ。良かったら弾いてみせてよ」
スイは背筋を伸ばし、さっと構えると課題曲である協奏曲の調べを奏でた。若者は微笑みながら頷く様に聞いていたが
「うん、うん、君は良い筋してる。君はこの曲を楽しそうに弾くね。この曲の謂われも研究したの?」
「研究と言う程の物ではないですけど、この曲をモーツァルト自身は演奏会で弾いて、その成功を彼の父レオポルトに手紙で書いて知らせたって言いますよね。だから私も演奏を父に聞いて貰えたらな、と思っていつも弾いてます」
「そうなんだ。君のお父さん、クラシック音楽が好きなの?」
「私の父は、このバイオリンも元々は父の物だったんですけど、とある管弦楽団でバイオリニストだったそうです。父もまたその管弦楽団に入る時のテストで同じ協奏曲を弾いたらしくて」
「そっか。君は努力家だね。僕は君を応援してるよ。それにアンドレアは弾き手の思いを隠さず全部音に変えてくれる優れた名器だ。君は必ずテストにパスするよ」
スイは若者に言われてハッとなった。
「貴方、どうしてこのバイオリンがアンドレアって名称だと知っているの…?」
若者は音楽室を去ろうとしていたが、スイの問いかけに後ろを振り向くと、スイの質問には何も答えず、ただ微笑んだ。
「じゃあね、愛しのパミーナ。テスト頑張って」
スイは家族しか知らないはずの自分の愛称を呼ばれ、待って、と叫んで、去って行った若者の後を追って音楽室を飛び出した。
だが、廊下には若者の姿は何処にもなかった。




