60章
スイは一人病室に籠り、ベッドに座りエミールの課題をせっせと片付けていた。
チーム4のラボから戻った後、スイの病室に理事のリン・コヴァルスカが助手のヴァーツラフ・ライテルを連れてやって来た。彼女の目的はスイの精神的なケアだと言いながら、実際には北極海の様子を聞いたり、ギガスの殻にどうやって入れられたのか等を尋ねたりしてきた。
スイはヒューペルボリアで見たオーロラが、心に染み入る程美しかった事は覚えていたが、北極海の事も殻の中の事も、あまり記憶にないと、そう正直に答えた。
「あまりお役に立てる様な情報じゃないですよね…」
「いえ、良いのよ。それでも。あくまで記録しておくに過ぎないから」
「ドクターコヴァルスカ、マーギュリス所長に私の母についていくつかお尋ねしたいのですが、面会は可能でしょうか?」
「マーギュリス所長は今週末まで此処を留守にしてるから無理ね。質問事項をまとめてくれれば彼にお渡ししますよ」
「そうなんですね…でしたら大丈夫です。ありがとうございます」
スイはアメリカ支部でマーギュリスから母とセイの事を聞かされて以来、彼が自分達家族の何かしらの過去を知っているのではないかと云う、僅かな期待を抱いていた。ヨーロッパ支部に来て、出来ればマーギュリスから直に母の事を何でもいいから教えて欲しいとの思いを胸に秘めていたのだが、その微かな希望を閉ざされて、スイは心の内で涙を流した。
そう言った経緯があって、実にもやもやした感情と戦いながら取り組む課題は、彼女のフラストレーションを増長させた。ああ、バイオリンを弾きたい。
そんな中、何処からかピアノの音色がスイの耳に入った。それはシューマンのトロイメライの優しいメロディだった。静かな音色になだめられるかの如く、スイの心はみるみるうちに凪いでいった。
3分にも満たない短い演奏は、スイだけではなく、離れた場所にいるソウの耳にも届いていた。
「リョウちゃん…」
演奏が止むと、スイは何処から聞こえて来たのか、誰が弾いていたのかを突き止めたいと強く思った。ベッドから出て、病室を飛び出し、音が聞こえていたと思われる方向へ、裸足のまま廊下を駆け出していた。医学部の病棟は想像以上に広かった。夜間とは言え、スイ以外に他の人がいるのかも分からない程、人気が全くなかった。
その一方でソウは、真っ暗な広い音楽ホールの1階の客席の一番奥の列に立ち、ステージの上を静かに凝視していた。ソウが見つめる先にはステージ中央に1台のグランドピアノが鎮座していた。ソウは、ゆっくりと瞼を閉じる。あの人は確かに此処であの音を奏でていた。ソウは目を開くと、ゆっくり舞台に向かって歩み寄り、そして舞台に上がると、自分でもそのピアノの鍵盤に指を落としていた。ベートーベンのピアノソナタ第14番の悲し気な音色がホール中に響き渡る。だが、その音は遠くにいるスイの耳には届かなかった。
翌朝、スイは病室に朝食を届けに来たニーナに、昨晩ピアノの音が聞こえなかったかと尋ねたところ、
「ピアノ?此処には無いわよ」
と笑われてしまった。
その後で病室に来た要にも同じ質問をしたが、要もまた、知らない、と答えた。
2人がその話で言い争っていると、リンが再びヴァーツラフを連れて病室にやって来た。
「貴方達、随分と仲がいいのね」
リンに指摘されると、2人は口を閉ざし、黙って来訪者達の方を向いた。
「ドクターコヴァルスカ、昨晩ピアノの音が聞こえたんです」
「ピアノ?此処の敷地内には置いてないし、此処から最も近い施設だって少なくとも10km以上は離れてるんだから、楽器の音が聞こえる訳がないわ。貴女のそのタブレットで再生したのではなくて?」
「そんな筈ないです。聞こえた時、私はこのタブレットでエミールの課題をやってたんです」
「貴女のコンディション、問題無さそうだからアメリカへ戻るプランについて話をしようと思っていたのだけれど、もう一度精密検査を受けた方がいい?」
「いえ。私達アメリカに帰れるんですか?」
「ええ。明日には平和維持軍の航空機が来て、アメリカ支部迄送って貰えるわ」
「私は問題無いです。帰りは飛行機に乗るだけですから。美崎君がいいのなら」
「俺はいつでもいい。だがアメリカに着く迄の全権をローズマリー・シノダが指揮監督するのでなければ乗らない。アサナギの安全の為にも」
「分かりました。本部に連絡しておくわね」
リンとヴァーツラフが退室した後、ひょっこりマニが現れた。
「君達、明日帰るんだってな。寂しくなるよ」
「マニ!」
スイは昨日チーム4のラボに行った事を話した。
「そっか。悪かったな」
マニはふと疑問に感じていた事を口にした。
「スイ、君は怖くないのか?」
「怖い?何が?」
「だって君、平和維持軍の本部にいる時に誘拐されたんだろ?」
「一応軍には、俺が此処に来る際に力を貸してくれたローズマリー・シノダが指揮しなければ搭乗しないと伝えた」
「もし、その人がカナメを逃がした事で降格、最悪の場合除隊になっていたら?その場合君達は此処に残り続けるのか?」
「その時はネオ・ムセイオンのプライベートジェット機でも出させる」
「なるほどね」
マニは肩をすくめた。
「私はともかく、美崎君とテタルトはアメリカ支部でも特別扱いなの。彼等をアメリカに戻す為なら、グールド所長が動いてくれるわ」
スイは要の方を見ると、要はばつが悪そうにそっぽを向いた。
「スイ、カナメ、ずっと気になってたんだが、君達は何でお互いをファミリーネームで呼び合うんだ?」
「そうだった?特に意味は無いわよ?初対面の時からそう呼んでたから、慣れちゃったわ」
「そうだな」
「ふーん」
マニは意味深な笑いを浮かべた。
「まあいいや、アメリカに戻っても良かったら連絡くれよ」
スイと要はマニのチャット用のIDを受け取った。
「ありがとう、マニ。貴方も元気でね」
改めて3人は友情の握手をし、スイとマニはハグを交わした。




