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59章

要はバスルームに閉じ籠ると、暫くの間、頬に残るリョウの両手の感触を思い返すと共に、彼女が別れ際に言い放った言葉について考えさせられていた。自分の欲望?自分が何をしたいなんて深く考えてもみなかった。あの女はアリッサの事は勿論、アサナギ・シンの事迄口にしていた。あいつは一体何者なんだ?

リョウから託されたスイのトートバッグの中には、スイのエミールシステムのタブレット端末が入っていた。要は端末を取り出し、電源を入れてみた。起動すると、課題の提出締め切りを知らせるアラートがいくつも浮かび上がり、最後に検索エンジンのサイトの画面が開かれた。

要はワード検索の窓をタップし、履歴を追った。それはスイが限られた道具(ツール)を使って何を知ろうとしていたかの履歴でもあった。

W.A.モーツァルト、J.S.バッハ、L.V.ベートーベン等の作曲家達。F.クライスラー、E.イザイ、N.ミルシテイン、I.スターン等のバイオリニスト達。要の知らない人名の間に物理学や生物学の用語、ギリシャ神話や聖書等に出てくる架空の生き物の名前等、一見何の関係もなさそうな用語が時々挟まれていたのが気になった。

沈黙のまま画面に触れていると、突然スマートウォッチの着信音が鳴り響いた。ギョッとして要は自身の手首に目を落とした。

「はい」

「カナメ、体調の方はどう?」

電話の相手はアリッサだった。

「何とかやってる。問題ない」

「そう。貴方が早くアメリカに戻れる様、手を尽くすわ。これ以上トラブルを起こさないで」

「気をつけるよ。あと、戻ったら大事な話がある」

「何?此処では話せないっていうの?」

「今はまだ、どう言葉にしたら良いのか分からない。アメリカに戻る迄に自分の頭の中で整理して、ちゃんと説明したいんだ」

「随分とおかしな事を言うのね。貴方は余計な心配をしなくていい」

電話はそこで途切れた。要は心の中に何とも言えない重苦しさを覚えながら、スイのタブレットの電源を落とし、トートバッグの底にしまった。

午後になって要が再びスイの病室に行くと、スイはベッドから起きて病室の中でストレッチ運動をしていた。

「アサナギ、何をしてるの?」

「何って、ずっと寝かせられてたから鈍った身体を動かしてるの」

「そう」

スイは運動するを止め、要の方に向き直った。そこでやっと要が右肩に下げていたトートバッグに気付く。

「美崎君、それ…」

「平和維持軍にあったのをお前に渡してくれって頼まれた」

スイは要からトートバッグを受け取ると、中身をベッドの上に出した。タブレット端末、充電器、タオル、ポーチ…他にも色々入っていたと思われるが、要に見られるのを恥ずかしいと思ったのか、それ以上は出さなかった。

「ありがとう。凄く助かったわ!エミールの課題がずっとたまってて、このままじゃ落第しちゃうんじゃないかと心配だったの」

「エミール、やってて楽しいの?」

「楽しい訳じゃないけど、好きな事だけやってても、私の探してる答えは見つからないって事を、教会にいた人達に痛い程思い知らされたから…」

そう言ってスイは苦痛に満ちた表情をした。

「思い出すのが苦しいのなら、全部忘れてしまえばいい」

「私が嫌な過去を忘れても、私以外の人はずっと記憶し続けるわ。例えその人がいなくなっても、負の感情はずっと残り、傷付けられた悲しみは復讐する心になって後世に引き継がれてしまう。その連鎖を終わりにする為にも、過去に何があったのかをちゃんと知りたいの」

スイの目は真剣だった。要は漠然とローズマリーが歴史を学べと言っていた事を思い出していた。

「済まないアサナギ。旧リヨンの地下でお前の身に何が起きたのか、俺は何も知らない。ただ、トートバッグを俺に預けた人物は、今会うとお前が自分の中で準備が整わない内に大きな刺激を受けてしまうから会えないと言っていた」

「大きな刺激?」

「その人はそう言っていた」

「美崎君は昨日からずっと知らない人の話ばかりね」

「お前を大聖堂から連れ出した人と、今日バッグを俺に託した人とは別人だ。だが、どちらもお前の事だけじゃない、アサナギ・シンとアサナギ・セイの事も知っていたんだ」

「シン…兄さんの事?」

スイは真顔になって考え込む様な素振りをしたが、内心では動揺していた。

「教会で尋問された時、その場にいたセロイ達は、私が兄さんの事を口にしたら動揺していたわ。兄さんは海獣(レヴィアタン)だとでも言うのかしら?」

スイはタブレット端末を取り出した。電源を入れると、次々に浮かび上がるアラートを縮小し、一つのフォルダを開いた。

「私はルーディオに会いに行くわ。彼なら何か教えてくれるかもしれないから」

そう言うと、フォルダの中の1つのファイルを取り出した。それは父のバイオリンケースの中に入れてあった紙のスキャンだった。

「この紙に書いてあることが分かれば、彼に繋がるかもしれない」

要にもそのスキャンに書かれている文字は解読出来なかった。

「マニに話があるのだけど、何処に行けば会えるか知ってる?」

「たぶん、ラボかもな。来いよ」

スイはエミールの端末を持ち、要の案内で初めて自分の足で病室の外を歩いた。ヨーロッパ支部の施設内の構造はアメリカ支部と大きく異なるものの、アバターの実験に関わるチームがより地表に近い上層部に位置するのは同じらしかった。

「マニ、いる?」

ラボに着くなり、要は開かれた入り口で声を上げた。スイが要の不作法を窘める前に、中にいたボビーが椅子にかけたまま隣のシモーヌに尋ねた。

「マニは寮に戻ったのか?」

「知らないわー」

「そうか」

そう言うとボビーは立ち上がり、来客の方へやって来た。

「すまんな、マニは今は此処にいない。あいつがどっか行っちゃうのは日常茶飯事なんだ」

スイは要の前に立ち、代わりに応えた。

「ありがとうございます、ドクター。美崎君、行こう」

そう言ってスイは要の腕を取り、その場を立ち去ろうとした。

「待って」

別のデスクにいたイネスが二人を呼び止める。

「貴女、デフテロのパートナーね?」

「はい」

「もう体調の方は大丈夫なの?」

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」

「マニは今朝早く此処に来てたようだけど、10時前に出て行ったきりよ。あの子に何か急ぎのご用かしら?」

「急ぎではないのですが、調べたい事があって、データベースにアクセスさせて貰えたらと思いまして」

「調べ物?ならちょうどシモーヌがいるわ。ねぇ、ちょっと!」

「何よう」

「シモーヌ、この子達の相談乗ってあげてよー」

「やーよう。何で私が子供の宿題の面倒見なきゃならないのー?」

「そう言わないでー。で、貴女達は何を調べたいの?」

「これなんです」

スイはエミールの端末を取り出し、スキャンデータを見せた。

「ふーん、まるで子供の暗号文みたい…人文科学系の研究者は此処にはいないけど、シモーヌに検索させてみて」

スイと要はイネスと共にシモーヌのデスクの所まで来た。彼女のデスクは巨大なコンピュータの脇にあり、40インチ程のホログラムのモニターがデスクの正面に浮かび上がっていた。

「子供達、その画像の何が知りたいの?」

「ここに何が書いてあるのかを知りたいんです。翻訳サイトで調べても分からなくて」

「そう。じゃあ貸してみて」

スイはタブレットをシモーヌに手渡すと、彼女はサイドテーブルの引き出しからコードを取り出し、脇の巨大コンピュータに接続した。するとホログラムの中にスキャン画像が浮かび上がる。シモーヌがキーボードを操作すると、背景がすべて切り取られ、文字の部分だけが画面の中に残された。

「言語が分からないから、画像検索でアプローチしようか」

シモーヌがデータベースに何か打ち込むと、ホログラムの画面に多くの検索結果が表示された。

「Unicodeの一部が一致してるのは線文字Aの様ね。そもそも線文字Aって未解読なんじゃなかった?」

スイは息を飲んだ。何故解読されていない文字で書かれたメモが、父のバイオリンケースの中に入ってたのか?

「難解なのは、線文字Aと一致する文字に混ざって、また謎の象形文字(ヒエログリフ)みたいなのが混じってる。エジプトのものともインダスのものとも一致してないわ」

「クレタ象形文字とか?」

「そうねー。クレタ象形文字と一致する結果が出てるから、その可能性はある。だけど、ロゼッタストーンみたいにそれぞれの言語のブロックに別れてるなら解読する糸口があるとは言えるけど、これは文字が混在してるから難しいよ。そもそもこれは何?」

「私の持つ、父のバイオリンケースに入ってたメモです。ただ、このメモの存在を教えてくれた人は、此処にいるから会いに来てって言ってました」

「それはアメリカ支部の研究者なの?」

「いえ、ネオ・ムセイオンの人ではありません。リヨンに囚われていた時にその人と再会しましたが、メモの事を何も聞けないまま別れてしまって…」

「そう。とりあえず線文字Aと、解読されてる線文字Bは、どちらもUnicodeに登録されてるからウェブで検索すれば見れるわ。クレタ象形文字はエヴァンズやオリヴィエの分類表で調べるといいかも」

「ありがとうございます!」

スイはシモーヌから端末を返して貰うと、笑顔で礼を言った。

「それで、あの、マニはペンプトのパートナーを下ろされてしまうんですか?」

シモーヌは黙ってイネスの方を見た。

「それはないわ。自宅謹慎にしても、あの子の場合、自由に『アストロマキア』に没頭する時間が出来たって喜んじゃって、処罰にならないんだもの」

「それじゃ実験には今迄通り参加するんですね」

「そうよ。ただ今回のせいでアバターが地上に出るためのルールがかなり厳しくなっちゃったけど」

そうなんですね、とスイは部屋の奥のアクリルパネル越しにペンプトの様子を見下ろしていた要に声をかけ、チーム4のラボを後にした。

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