54章
バスタブの中にいた要は、微睡みかけていたのが、急に部屋の照明が落ち、何か異変が起きようとしているのを察知した。
「ニュクス、此処は外してくれ」
要には聞き覚えのない声がした。
「誰?」
要の声がバスルーム内に響く。再び部屋の照明が復活し、シャワーカーテンに一人の男の影が映った。
「君は美崎要だね?」
「そうだ」
「やれやれ。真ちゃんから久々にコンタクトがあったと言うのに、すれ違いとはね。会えなくて残念だな」
「お前は誰なんだ?」
「僕?僕は君と同じ親の下に造られた存在だよ。要」
「同じ親だと?」
「ああ。ただ、僕は実験体としては失敗作だったからね。君と違い、僕の身体は事実上研究所ごとこの世からは抹消された。データと研究の中心人物諸共にね」
「お前はアサナギ・シンを知っているのか?」
「勿論」
「だがあいつは此処にはいない」
「それは分かっているさ。君が此処にいると云う事は、真ちゃんは君の影の中にいると云う事だろうから」
「影?」
「まあ、その話はいいや。本題に移ろう。真ちゃんがリョウちゃんに何か尋ねようとしていたみたいなんだけど、生憎僕達は取り込み中だったもんでね。大方翠ちゃんの身に危険が迫っているから何とかしてくれと云う事だろうとは思うけど」
「アサナギ・スイが誘拐されたんだ」
「誘拐?相手の狙いは何だ?」
「分からない。最初は世界連合がやった事だと思っていた。だがアサナギはフルヴィエールへ連れて行かれたと聞いた」
「ふうん。ドドナは翠ちゃんの力も手中にしたいんだな」
「俺はドドナがアサナギの予見の能力を亡きものにしたいのだと聞いていたが、違うのか?」
「翠ちゃんに備わっている本来の力はそんなもんだけじゃないさ。まあ、どちらにせよ、自分が何者であるかについての記憶がなくて、本領を発揮出来ない翠ちゃんを籠の外に出してあげないとね。君達にとっても、僕達にとっても、このままではあまり都合がよくない点で利害は一致している」
シャワーカーテンに映る影がスッと動き、バスルームのドアが開く音がした。
「待て!何処に行く!」
要はバスタブの中から立ち上がり、シャワーカーテンを開けた。
「決まってるだろ、要。今からフルヴィエールに行くんだよ」
入り口の所で要の方に振り返った男は、真っ赤な瞳を除いて、髪も肌も何もかもが透き通るように真っ白なアルビノの少年だった。また、彼の黒を基調とした服装は、全身の白さを更に際立たせていた。要は自分より数える程しか年上に見えない彼に対し、何やら形容し難い畏怖の念のような感情を抱いた。
「要。君は着替えて1時間後にタラッサを向かわせ、地上で待機してるんだ。僕は先に行って片付けておく」
そう言うと少年はパッとその場から消えた。そして音を立てながらバスルームのドアが勝手に閉じた。要は今目の前で起きた状況を飲み込もうと立ち尽くしていたが、テタルトでフルヴィエールへ向かわなくてはならない、という事だけは理解出来た。
要は再度同調用スーツに身を包み、バスルームを出ると、そのままチーム4の ラボに足を運んだ。ところが入り口のロックが解除出来ず、途方に暮れていると、背後からマニがやって来た。
「おはよう。君、早いね」
「あ、ああ」
「テタルトの様子を見に来たの?」
「そうだが…君は?」
「僕はエマニュエル・ブラウン。マニって呼んで」
そう言ってマニは手際良くラボのロックを解除した。
「テタルトは奥にいるよ。僕のペンプトと一緒に」
要は黙ってラボの奥のアクリルパネル迄近寄った。昨晩の内にメンテナンスが施されたのか、テタルトは何事もなかったかの様に整備済みの状態で横たわっていた。
「マニ、俺、テタルトで地上に出たいんだ」
「デフテロのパートナーを助けに行くんだろ?」
「そう」
「いいよ。但し僕もペンプトで一緒に行く」
「危険かもしれないが、良いのか?」
「ペンプトと一緒に助けに行くって最初に言ったのはそっちだろ?」
マニはニヤッと笑った。
「僕は正義の守護者、光の武士だからな」
要は首を傾げた。
「『アストロマキア』だよ!知らないの?」
要は小さく頷いた。
「アメリカから来た人なら知ってて当然だと思ったのにな!無事戻って来たら全巻貸してあげるから読んで勉強してよ。きっと君も気に入るから」
要は無表情のまま「ありがとう」と応えた。
要はマニに教わった場所へ行き、安置されたカプセルの中に入った。鼓動の音がカプセル内に響き、同調を始める。
「カナメ、スタンバイオーケー?」
「ああ」
「了解。とりあえず行きましょか!」
マニ自身もカプセルに入り、ペンプトと同調すると、持ち込んだタブレットでエレベーターをリモート操作した。
地上に着くと、早速イカロスとエアボードを取り出し装着する。要は昨晩着陸した時は夜で殆ど周りの地形が見えていなかったが、こんなにも独特の地形から上手く飛び立てるだろうか、と不安に思った。だが、マニ=ペンプトが山の風と地形を利用して飛び立ったのを見て、見よう見まねで離陸を試みた。だが、上手く上昇気流に乗れず、4度目にしてやっと上空で旋回していたペンプトに追い付く事が出来た。
「フルヴィエール、座標は北緯45度45分43.2秒、東経4度49分19.668秒。オーケー?」
「分かった」
「じゃあ行こう!」
そう言うとマニ=ペンプトは颯爽と西に向かって進路を取り、要=テタルトもそれに従った。
2体のアバターが密かにフルヴィエールに向けて飛び立ったのと同じ頃、平和維持軍の本部では、ジョシュアがパブリックスクールの制服姿の少女を1人伴い、デフテロが安置されている格納庫を訪れていた。2人はスイが使っていたデフテロのカプセルを置いてある別室に入ると、ジョシュアは少女に向かって言い放った。
「ムツキ、やってみろ」
「ええ」
ムツキと呼ばれた少女は、柔らかな微笑みを湛えカプセルの中に入った。そして静かに同調を開始した。
セイは動く筈のないデフテロの体の内部から、何かが動き出そうとする異変を瞬時に察知した。
「…貴女は誰?」
その声はカプセルの中の少女にも届いた。
「聖ちゃん、久しぶり。この体で会うのは初めてね」
「…貴女は!」
「起こしてしまってごめんなさい。実は真ちゃんから要君経由で私に連絡があったの。理由は分かるわよね?」
「…翠がザラストロに捕まったのね」
「ええ。そうなの。本当は私が自分で助けに行きたいのだけれど、軽々しく動いて奏ちゃんと鉢合わせする訳にはいかなくて」
「それは…確かに面倒な事になりそう。それで、えっと、今の貴女を私、何てお呼びすれば?」
「リョウよ。睦月リョウ」
「では、リョウ様。私は何をすれば?」
「やあねえ、聖ちゃん。よそよそしくしないで。私の事はリョウって、呼び捨てで構わないのよ?それに今日は、私の今の体で貴女と同調出来るか、確かめに来たの」
「翠じゃないのに、私と同調するですって?!」
「そうよ。理論的には別におかしい事ではないわ。もし上手く行けば、そのまま私の代わりにリヨンのフルヴィエールに向かっても良いのよ」
「リヨン…其処でこれから何が起こるの?」
「秘密…って言いたい所だけど、聖ちゃん鋭いから全部お見通しかしら。行けない私の代わりに、ヒカル君が翠ちゃんを助けに向かったわ」
「ヒカル君て…まさか!」
「たぶん、ご明察。ああ、そろそろベニントン少佐が外で痺れを切らしちゃうわ。聖ちゃん、始めるわね」
リョウと名乗った少女は深海の様に青い大きな両目を閉じ、深呼吸をした。同時にセイは、全身が真綿で締め付けられたかの様に苦しいのに、何処か得体の知れない快楽を味わっている事に気付かされた。
スイがフルヴィエールの地下聖堂でザラストロと3人のセロイと対峙していた時、再びデフテロは地上に向けて動き出そうとしていた。




