53章
イネスのスマートウォッチが鳴った。相手はアンドレだった。
「イネス!何の騒ぎだ?」
「テタルトが到着したのよ」
「テタルト?américainは明日来るんじゃなかったのか?」
「緊急事態が起きたようよ。デフテロのパートナーが誘拐されたらしいの。それで急遽こっちに逃げて来たみたい」
マニはそれを聞いて、カナメは逃げて来たんじゃない、と言おうとして、イネスに睨まれ口をつぐんだ。
「取り敢えずそっちに戻るよ」
「分かったわ」
電話を切ると、今度はボビーと理事の王到遠からも同様のコールがあった。イネスはそれぞれ同じ回答をした。マニはイネスの受け答えによって負け犬扱いされてしまった要に心の中で同情した。
「イネス、ゲート開けますね」
休む間もなく理事リン・コヴァルスカからの電話と質問に答えていたイネスは、マニにGOサインを送った。
「ありがとう」
モニターから要の声がした。
「エレベーター乗ったね?降ろすよ」
「ああ」
程なくしてアメリカからの来訪者が無事ラボ入りを果たした。
「カプセルをアバターで直接運んで来たの?fouだね!」
マニは興奮気味にアクリルパネル越しにエレベーター内に片膝をつく姿勢でエアボードとカプセルを抱えて降りて来たテタルトを見下ろながら言った。
「イネス!人造人間の様子は?」
ラボに入って来たのは王到遠だった。
「ドクター、あちらです」
イネスは立ち上がって奥のアクリルパネルを指した。
「人造人間?」
マニは要が人間ではない事を知らなかった。到遠はマニがいるのも気にせず、アクリルパネル越しにテタルトの持つカプセルから出てきた少年に話しかけた。
「君がミサキ・カナメだな?ドクターグールドから話は聞いている」
「あんたは?」
「ヨーロッパ支部理事の王だ。しかし、まあ、君の見た目は普通の子供なんだな」
要は無表情でパネルの外側にいる平たい顔の中年男を見上げた。
「悪いがあんたと悠長に話している時間はない。俺は今からフルヴィエールへ行かなければならない」
「フム。ならば致し方あるまい。イネス、やってくれ」
「良いのですか?」
「ドクターグールドからの指示だからな」
「分かりました」
要はもっと反対されると思っていただけに、無関心な反応に拍子抜けした。ところが天井のスプリンクラーから何か湯気の様な物が噴射され、それが何なのかを考える間もなく、急に強い眠気に襲われた。
「…しまった」
催眠ガスの効果は強く、要は膝から崩れ落ちる様に床に倒れた。その様子を上から見ていた到遠は無表情で頷いた。
「眠った様だな。イネス、手伝ってくれるか?」
「はい」
ラボから出て行った到遠とイネスと入れ替わりに、アンドレとボビーがラボにやって来た。
「マニ!まだいたのか?」
「あー、はい」
「たまには寮に帰れよ。マリィさんに怒られるのはこっちなんだから」
マリィはマニが住むスタッフ用寮の管理人だった。その面倒見の良さがマニには過剰なお節介に思え、若干鬱陶しかった。
「ところでイネスは何処行った?」
「ドクター王とどっか行きました」
「テタルトとパートナーは?」
「この中です」
マニの隣にアンドレとボビーが並んで立ち、中の様子を伺った。すると、白い防護服を着た到遠とイネスがテタルトと要がいる室内に入って来た。
「あれが例のコンビなのか…」
眠ってしまった要を、到遠とイネスの2人がかりで車椅子に座らせた。
「ドクター、彼はどちらへ?」
「取り敢えず医学部のバスタブに彼を放り込んでおくか。それでもアメリカみたいな本格的なプールがないから、あくまで応急処置程度にしかならんがな」
イネスが車椅子を押し始めた時、眠っていたはずの要の両目蓋がゆっくりと持ち上がった。
「僕を何処へ連れて行く気?」
イネスは短くキャッと叫び、到遠は狼狽した。
「ドクターグールドの指示で、君が此処に到着したら眠らせてでも培養液に入れる様にとの事でな。その指示を遂行する所だ」
「ふうん…まさかとは思うけど、アリッサの指示以外の事もしようなどとは考えていないよね?」
要が催眠ガスによって眠った事により、2人に話しかけていたのは要の中にいるシンの人格だった。
「そんな…滅相もない」
たじろぐ到遠を尻目に、シン=要はイネスに「自分で歩けるから」と車椅子から立ち上がった。
「貴方は王さん、と言ったっけ。悪いがこれから僕が言うものを一通り早急に用意して貰えますか。それと、アバターパートナー候補者のリョウに話があるのだけど、彼女と連絡取れませんか?」
「わ、分かった。善処しよう」
到遠の目配せにイネスはシン=要を医学部の部屋へ案内した。
その一部始終を上のラボから見守っていたマニは、要相手に2人は何でそんなにびくびくしてるのだろうと疑問を持った。
「何かカナメ、エレベーターから降りて来た時と雰囲気が違う気がする…」
「催眠ガスを吸わせたせいか?しかしまあ、話には聞いていたが、彼、なかなかのナイスガイだな」
「はは。イネスとしても、生体サンプルを採取したかったんだろうね」
アンドレが感心するかの様に腕組みし、ボビーも面白半分に下の様子を見下ろしていた。マニだけが素朴な疑問が次々に止まらなかった。
「ねぇ、カナメは此処に来たばかりなのに何でまだ同調に成功もしてない他のパートナー候補者に話なんてあるんだろ?」
「さあな」
「リョウなんて候補者、僕も知らないし」
テタルトを残し3人が隣の部屋から出て行ったのを見届けると、やることはいっぱいあるぞ、とアンドレは白衣の腕をまくった。
「マニは寮に戻れよ。マリィさんが心配してるから」
それを聞いてマニはアンドレに向かってあからさまに嫌そうな顔をした。
その裏で要=シンは1人医学部の患者用のバスルームに籠り、バスタブに電気式の軟水器を通した水を張り、イネスに用意して貰った薬剤を数種類投入すると、自らも同調用スーツを脱いで、そのバスタブの中に身体を浸した。
薬剤の効果ですぅっとした感覚が全身に染み渡り、要の身体の中で眠っていた要の意識が段々目覚め始めた。
「気が付いたかい?」
「アサナギ・シン…!」
「要は昨日は隙だらけだったね。大人達は、いや、人間達は、と言うべきかな、彼等は君の事など露にも気にかけていやしない。でも気にするな。僕達家族にとっては、君はとても大切な恩人なのだから」
「そうだ、フルヴィエールへ行かなきゃ…!」
「彼処に僕が行っても君が行っても、招かざる客は入れない。彼処は彼等の聖域だからね」
「だけど、アサナギ・スイが…」
「スイはカテドラルの何処かに幽閉されている。恐らくね」
「俺もお前も入れないのなら、どうしたら彼女を救い出せるんだ…?」
「どうすれば良いか、僕が知る限り唯一の解決策を知る人に僕の方からお伺いを立てた。まあ、あの御方は必ずしも明確な指示をお授け下さる訳ではないけれどね」
今の君に必要なのは、1週間の旅の疲れを少しでも取る事だよ、と言い残してシンは沈黙した。
要はシンの「あの御方」と云うのが誰なのかを考えているうちに、これ迄の疲れが堰を切って押し寄せてきた事で、そのままバスタブの中でうつらうつら眠りに落ちてしまった。




