52章
「貴女、泣いてるの?」
スイはファーティマに指摘され、はっとなって咄嗟に右手で右の頬に触れた。
「いえ、石鹸の泡が目に飛んだだけです…」
スイは照れ臭そうな顔付きをして、下を向いた。
「貴女が着ていた服は此処で皆の服と一緒に干して置くと良いわ。大丈夫よ。黙って盗ったりはしませんから」
浴場の隣にある広いリネン室は、兎に角大量の女性の服が洗濯紐に吊り下げられ、空調の温風に煽られ、一斉に靡いていた。ブルカ、スカーフ、ベールにワンピース、シャツ、民族衣裳の様な服もあれば、カジュアルな服もあり、世界中の色んな服が干してある様にも見えた。
スイは水洗いしたスーツをハンガーで吊るし、ファーティマから代わりにゆったりとした縫製の白いワンピースとサンダルを借りた。一方でファーティマは再び黒いブルカを身に付けた。
「それでは改めてセロイの所へ貴女を案内します」
スイは再び手錠に繋がれた。
「手錠なんてしなくても、私は此処から逃げられないのに」
「形式上、仕方ないんです」
我慢して下さい、と言われ、スイは小さく頷いた。
今日スイがファーティマに連れて来られたのは、昨日の大聖堂より更に地下にある広い部屋だった。そこもまた石造りになっていて、天井は高く、その天井を支える柱の上にある照明は部屋全体を隅々まで照らしてはいなかったが、正面の巨大なステンドグラスを鮮やかに浮かび上がらせるには十分な光量だった。昨日の様な群衆はおらず、中央の壇上の前に仮面を付けた白い長衣の男とライオン、それに3人の目隠ししたセロイ達が立っていた。
話は前日に戻る。スイがイゴールと依然により拉致された直後、要は踞る傍らに誰かがやって来たのを気配で察した。
「…遅かったか」
その声はローズマリーだった。
「要、立てるか?」
ローズマリーの差し出す手を借り、要は起き上がりながら訝しげに尋ねた。
「アサナギが世界連合に連れて行かれるのをお前は知っていたのか?」
「ああ。デフテロの引き渡し後にスイも狙われると分かっていた。それを未然に防ぎ、スイを安全な所へ逃がすのが私の秘密の使命だった」
「使命って、あんたは一体何者なんだ!?」
「大きな声を出すな。此処での会話は全てスイを誘拐した敵に筒抜けだと思った方がいい」
要は「水を」と頼むと、ローズマリーは何処からか水筒を取り出し、要に手渡した。
「安心しろ。一先ず要とテタルトは私が責任を持ってヨーロッパ支部迄送り届けるから」
「ダメだ。俺はアサナギを助けに行かないと」
要は水筒の中身の臭いを一瞬嗅ぎ、無臭を確認すると一口飲んだ。そして元気が出たのか、上半身を傾け、そのまま立ち上がろうとしかけた。
「ローズマリー、教えてくれ。アサナギは何処へ連れて行かれたんだ?」
「世界連合と見せかけてフルヴィエールだろう」
「フルヴィエール…?」
「此処から最も近い、アブラハムの宗教団の拠点がある場所だ」
「そんな所に何故アサナギは連れて行かれたんだ?」
「アブラハムの宗教団を影で動かしている預言者達、我々はドドナと呼んでいるが、彼らにとって未来を予見出来るスイは、あってはならない存在だからだ」
「アブラハム…?」
「要、君は今起きている現実を理解する為には、まず歴史を学んだ方がいいな」
ローズマリーは苦笑して立ち上がった。
「人間社会というのは実に複雑でな。色々な利害関係や因縁や過去の事件が積み重なって拗れて出来ている。そいつをいきなり今すぐに全部理解しろというのは、君でなくても難しいと思うよ」
要は首をかしげた。
「歴史を学ぶにはどうすればいい?」
「私が個人的に正攻法だと思うのは、自分で何か興味がある物、人でも文化でも出来事でも何でもいい、それがどういったルーツで成り立ったのかを深掘りしてみる事だ。人間の子供達と同様にエミールシステムで学ぶも良し、手っ取り早く本を読むも良し」
「本?」
「ああ、読書だ。だが、本は世界中に大量に溢れている。全部を読む事は出来ないし、その中には良い本もあれば、つまらない物や嘘を書いた物もたまにあるから気を付けろよ。『人生は短い。この本を読めば、あの本は読めない』なんて云う言葉もある位だしな」
勿論、君達が無事に戻ってからで良いんだが、とローズマリーは付け加えた。
そのまま2人はテタルトのカプセルが置かれている飛行機の格納庫迄やって来た。
「君はテタルトを動かして、スイがデフテロでやった様にカプセルを持ってそのまま北緯46度17分41秒、東経6度 14分44秒へ行け。君がスイを助けたいのなら、先ずは自分のコンディションを万全にする事と、我々を助けてくれた新しいアバターの助けを借りる事だ」
「何故あんたはそこまで俺に味方する…?」
「決まってるだろ。スイが持つ予見の能力は、人類が生き残る為の最後の武器であり砦でもあるんだ。このままアブラハムの宗教団と世界連合が地球を支配し続ければ、彼らの云う終末とやらが現実の物となってしまう。私はそんな将来に最後迄抗いたいんだ」
要は左手首に巻いた自分のスマートウォッチとスイのスマートウォッチに目を落とした。
「要、もう時間はない。私はテタルトが地上に出る為の滑走路へのゲートのロックを解除するから、一人でネオ・ムセイオンに向かうんだ」
要は小さく頷くとカプセルの中に入った。ローズマリーはそれを見届けると、格納庫を後にし、隣のコントロール室へ移動した。
ゆっくりと要=テタルトは目を覚まし、起き上がる。此処は平和維持軍の航空機が地上へ出るための滑走路に続く云わば前室の様な所だった。だが、要=テタルトは逆方向の地下の格納庫へ向かう通路をエアボードで降りて行った。閉ざされたゲートの前に立つと、ローズマリーがロックを解除してくれた。要=テタルトはそのまま進み、飛行機の所迄来ると自分の本体が入ったカプセルをテタルトの両手で抱えた。そして再び来た道を戻る。
「ローズマリー、最後に教えてくれ。スイを安全な所へ逃がす様、あんたに指示を出したのは誰なんだ?」
「シークレット・チーフだよ」
いいから早く行けよ、とローズマリーの言葉に背中を押される様に、要=テタルトは来た通路を戻り、更に地上へ出る滑走路への道を登った。
要はカプセルの通信機のスイッチを入れようとして、躊躇し、スイのスマートウォッチを作動した。
「…スイ?スイなの?」
「いや、ユリア。要だ」
「カナメ?どうしたの?」
「アリッサに言うより、チーム6に相談した方がいいと思って」
「え…?」
「俺は今からヨーロッパ支部に向かう。ペンブトと合流したらフルヴィエールに飛ぶつもりだ」
「フルヴィエール?どうして?」
「アサナギがそこにいるらしい」
「待ってカナメ。君がアバターで行ったとして、スイがいるのは地下のコロニーの中でしょう?どうやって探すの?」
「それは…」
要の中にいるアサナギ・シンを目覚めさせる、と言おうとして、どうやったら自分の意思で呼び出せるのか、要はその方法を知らない事に気が付いた。
「カナメ、落ち着きなさい。スイを助けたい気持ちは私も同感よ。でも、何の計画もなしにただ正面からぶつかるのはダメ。貴方とテタルトの存続にも影響するかもしれないわ」
「じゃあアサナギがどうなってもいいって言うのか?」
「そんな事言ってないわよ。私達だってチームの仲間の無事が心配だわ」
要=テタルトは地上の滑走路へ出る最後のゲートの前に立った。そしてコントロール室からのローズマリーの「幸運を」と言う台詞と共にゲートが開き、ゆっくりと外側の夜の景色が広がって行った。
一方で、そのコントロール室では、窓から格納庫を見下ろしているローズマリーの背後で荒々しく扉が開き、同時に銃の安全装置が解除される音が鳴った。その音を聞き、ローズマリーは振り向きもせずゆっくりと両手を上げた。
コントロール室で何が起きているのかは露知らず、要=テタルトは再び空を飛んだ。此処からはそう遠くない場所にヨーロッパ支部がある。ローズマリーから教わった座標を目指し、要=テタルトは南下した。
その間、ユリア達はアメリカ支部から要=テタルトのいるポイントをチェックしつつ、ヨーロッパ支部のチーム4にコンタクトを試みていた。
「ハロー?」
「アロー、此方はイネスよ」
フランス人特有のアクセントで応答があった。ユリアは要=テタルトが単独でそちらに向かっている事と、スイが誘拐された事を手短に伝えた。
「スイって、デフテロのパートナー?」
イネスの隣にやって来たのはマニだった。
「テタルトだけ、今から此処に来るの?」
マニはスイを直接は知らないものの、今日初めて会ったデフテロとパートナーには、もっと昔からの知り合いだったかの様な親近感を抱いていた。
「ちょっとマニ、静かにして」
「ペンプトのパートナーもいるの?」
ユリアは驚いた。現地は既に夜の時間で、未成年者の彼女は既に家に帰ったものと思っていたからだ。
「あー…マニは、好きなアニメとかコミックに夢中になると、移動時間が勿体ないからって此処に泊まり込む事はしょっちゅうなの…いつもの事なんで気にしないで」
「いいえ、エマニュエル・ブラウンさんよね?初めまして」
「初めましてドクター。私の事はマニと呼んで下さい」
マニもメイン言語はフランス語だが、実父がアメリカ出身だった事もあり、割と聞き取り易い英語で挨拶した。
「マニ、面倒な事になったの。デフテロのパートナーのスイが平和維持軍本部内で誘拐されたらしいの」
「平和維持軍本部で誘拐?!軍は何をしてるんだ!」
「本当よね。それで一緒にいたテタルトのパートナーのカナメが、ペンプトと一緒に助けに行くって言っているの」
「助けに行くって、犯人が分かってるの?」
「犯人は分からないわ。でもカナメはフルヴィエールへ行くって言っている」
「フルヴィエール?スイはノートルダム教会にでも幽閉されてるの?」
「それも分からないわ。ただ、カナメは1日14時間以上アバターと同調するのは命の危険が伴うそうなの。今日は既に10時間近くは活動している」
「それってまずいんじゃ…」
「まずいのよ。だからマニ、貴方はカナメが着いたら、スイを助けに行くのを止めて欲しいの」
「分かった。そうする」
マニはユリアと約束をした。その側から地上ゲート付近に何かが接近したのを知らせるアラートが鳴り響いた。テタルトが到着したのだった。




