51章
スイは暗い独房の粗末な寝床の上に座り、ひんやりと冷たい石造りの壁に凭れ、茫然と天井の模様を眺めながら、此処に連れて来られてからムスリムの女やライオンと話した内容を思い返していた。眠りにつく時間はとっくに過ぎていたが、興奮の為か、なかなかヒュノプスは彼女の元には訪れなかった。
せめて1挺のバイオリンがあれば良いのに。ヴァーシポリスを出発して以来、暫く大好きな楽器から離れていて、無性に何かの音色を奏でたかった。スイはセイが自分に見せてくれた演奏と、父の形見に纏わる話を思い出しながら、ほとんど記憶にない父と母のロマンスを想像した。
「お姉ちゃん。どうして力を使わないの?」
聞き覚えのある男の子の声にハッとして前を向いた。
「君は…!」
スイは寝床の足元の方にいつの間にかいた、ズボンのポケットに両手を突っ込んで立つ男の子に見覚えがあった。スコピディア(ごみ捨て場)でスイが白い防護服の大人達に捕まる前に出会った少年。そして、バイオリンケースの中に謎の文字の手紙を残していった謎の男の子。
「君、何処から来たの?どうやって此処に入って来たの?」
「お姉ちゃんがドドナに連れて来られる事は分かっていたさ。その前に本当はお姉ちゃん達を2人とも助けたかったんだけど…」
「助けるって?」
「ごめん、もっとお姉ちゃんと話したい気持ちはやまやまなんだけど、もう見つかっちゃったみたいだ」
男の子がそう言うか言わないかのうちに、部屋の外側で騒々しく誰かがやって来る物音がした。
「ねえ、君は誰なの?」
「僕?やだなあ。僕に生まれて来て欲しいって、あの父さんに言ったの、他でもないお姉ちゃんなんだよ?」
そこで初めて男の子はスイの方に振り向いて、正面からまっすぐ顔を向けた。部屋の中は薄暗かったが、小さな窓から射し込んでくる微かな灯りに照され、男の子の顔付きと、深い赤紫色の両目をほんの僅かな瞬間にはっきりと見る事が出来た。スイはその目が誰かの目にとても良く似ている、と気がついたが、誰に似ているのかをなかなか思い出せなかった。
スイが男の子の目が誰と似ているのかを考える間もなく、バタッと荒々しく金属製の扉が大きく開かれた。
「ルーディオ!!」
ザラストロの怒鳴り声と共にライオンが扉から入って来るなり、男の子に向かって上から飛びかかった。
「やめて!!」
スイは思わずそう叫んでいた。男の子は悲し気な表情をスイに見せると、初めて会った時と同様に、まるで煙や霞の如くそこから消え去った。
ライオンは男の子がいた辺りに降り立ち、威嚇するような唸り声を喉の奥で鳴らした。その後ろから、白い仮面を付けた大柄な男が一人、静かに入って来た。
「まさか奴が自らこの聖域内に侵入するとは…」
その男の声は聞き惚れる様なバスの声、ザラストロの声そのものであった。
「汝は奴から何を吹き込まれたか、ザースの御前で改めてうかがおう。夜中に邪魔をしたな」
「待って。貴方が本当のザラストロ?」
「そうだ」
「それじゃライオンに話をさせていたのも貴方だったの?」
「そうだ」
「あの男の子は誰?どうして貴方はあの男の子を襲わせたの?」
「奴は、奴こそがザースの創りたもう世界の平和を乱す、全ての原因だからだ」
「確かにあの子は私の覚えていない事を色々知っていそうだわ。でも、殺さなくたって良いじゃない」
「奴はああ見えても非常に狡猾で残虐な存在だ。この世界に君臨し続ければ、罪のない人々を混乱の渦の中に陥らせ、醜い争いをする様唆す。ザースの治める平和な世界にとって、奴は忌むべき存在なのだ」
「それは貴方達があの子を殺そうとするからではないの?」
「奴には既に3度も更生の機会を与えてやった。だが3度とも奴は造反した。最早救う余地はない」
ザラストロはライオンを引き連れて静かに退室した。重い金属製の扉がガタンッと再び閉ざされる。沈黙の中、スイは男の子が誰に似ていたのか、ずっと思い出そうと頑張ってみたが、とうとう記憶の底から答えが浮かび上がって来る事はなかった。
夜が明けた。結局あの後、スイはあまりちゃんと眠る事が出来ず、ひどく頭がぼやけた状態で再び独房の外へ連れ出された。
本来ならその日からスイは要と共にアメリカに向けての帰路に着くはずだった。だが、通信手段であるスマートウォッチは拉致された時に外されて失ってしまった。ネオ・ムセイオンの皆は、美崎君はどうしているんだろうか。セイは無事だろうか。
今日スイを先導するのは年若いシスターだった。緊張しているのか、何も喋らなかった。廊下を進んで行くととある部屋から一斉にムスリム達が出て来て、様々な方向へ散らばって行った。
「シスターイザベラ。ありがとう」
他のムスリムに混ざって、昨日までスイを先導してくれていた黒いブルカ姿の女、ファーティマが部屋から出て来た。
「後は私が」
イザベラと呼ばれたシスターはファーティマとスイに一礼をすると無言で立ち去って行った。
「おはようございます。貴女、昨日はよく休めなかった様ですね。顔に疲れが出ています」
「…はい」
ファーティマに指摘され、スイは言葉少なに答えた。彼女は昨日独房で起きた事を何も知らないのだろうか。
「先ずは沐浴に行きましょう」
スイは女性ばかりが出入りする一画へ連れて来られた。そこでは信仰も宗派も関係なく、脱衣所で皆真っ白なゆったりとした服を身に付け、浴場の中央にある大きなプールから盥で水を汲み、めいめいの身体に水を掛けていた。スイはスコピディア(ごみ捨て場)にいた頃、時々浮浪児達で服のままホースの水を掛けあって塵芥や垢を流していた事を思い出した。
「驚きましたか?」
ファーティマがブルカを脱いで同じく白い服装になって、盥を持ってスイの隣に立った。彼女はアラブ系特有の黒目、黒髪、褐色の肌を持ち、すっきりとした目鼻立ちで、まるでイシスかハトホルの様な華やかさと聡明さを全身に漂わせていた。
「…えぇ」
スイは彼女がもっと恐ろしい形相をしているのかと思っていただけに、実態を見て少し萎縮した。
「さあ、行きますよ!」
同じく白い服を着たスイは、頭の上からザバアッと水を浴びせられた。
「ヒャッ!」
「目と口は閉じていて下さいね!」
ファーティマは遠慮なくスイの頭に2杯目の水を振りかけた。
「多めに水をかぶせておきましたから、ついでに全身を洗って下さいな」
そう言って石鹸の固まりを手渡された。水を存分に吸った服の上から石鹸で身体を擦ると、色々な汚れを含んだ泡が出て来た。こんなにも体中が汚れていたのかとスイは恥ずかしさを覚えた。自ら盥で水を汲み、肩から泡を流すと急に生き返ったかの様な清々しさを感じた。
沐浴が済むとスイは今日迄着ていた同調用のスーツをそのまま盥で水洗いした。本来ならば専用の溶剤でクリーニングしなければならないのだが、ネオ・ムセイオンのヨーロッパ支部にいつ行けるかも分からなかったため、心の中でフェイとユリアに謝りながら、約1週間分の旅の汚れを押し洗いした。ふわっと潮の香がして、兄と対面した後の北極圏の海とオーロラを思い出した。兄とはもっともっと話がしたかった。可能であればセイも一緒に話が出来れば良かったのに。
「…あ」
ふとスイは気がついた。昨晩部屋に現れた男の子の目は、ネオ・ムセイオンで見たセイの目と良く似ていたことに。




