35章
スイはマーギュリスの告知に、絶望の壺の中に放り込まれたかの様に、全身から力が抜けていくのを感じた。
「マーギュリス所長、一つだけ教えて頂けませんか。セイは一体何者なんですか?」
「おや、君はセイと同調してて、その事は見抜けなかったのかな?アサナギ・セイは流産で亡くなった君の双子の姉だ。デフテロは君の母親から排出された胎児の細胞をベースに造られたアバターなのだよ」
スイは一瞬ポカンとした表情になり、マーギュリスのホログラムを見つめたまま涙を溢した。
「そんな…それを聞いてしまったら尚更、デフテロを世界連合や平和維持軍へ引き渡すなんて嫌です…」
「子供の君がどう言ったとて、どうにもならん。この混沌とした世の中で、人類の医療技術の進歩の為になるならばと、胎児をサンプルとして提供する事に同意したのは君達の母親本人なのだからな」
スイは静かに瞬きした。両目に溜まっていた涙がまた頬を伝う。これまでほとんど記憶になかった自らの母親に対し、恐怖と恨みの入り混じった複雑な感情が生じた。
「それでは、デフテロを世界連合へ引き渡すという決定は、もう覆せないのでしょうか?」
「そうだ、スイ。やっと君達の今置かれた状況を理解出来た様だな」
アリッサとドーキンスのホログラムは共に目を閉じ、両手を組み、静かに頷いた。スイは下を向き、両手で顔を覆った。泣き崩れたスイをドリーは言葉も出せずに胸に抱きしめる。沈黙していたドーキンスのホログラムが落ち着いた口調で語りかけた。
「アサナギ・スイ君。このような形で君達の実験が終了するのは我々としても非常に残念だ。だが、君達ペアが残してくれたデータは、アバターの実用化に向けて我々を大きく前進させてくれた。ネオ・ムセイオンの全研究者を代表して改めて礼を言うよ」
では悪いがこんな時間なのでそろそろ、とドーキンスとマーギュリスのホログラムは消え、会議室内はスイのすすり泣く音だけが響き渡った。
「グールド所長、これで話し合いは終了でよろしいでしょうか?」
スーの問い掛けにアリッサはええ、と答えた。ドミニク、カビーア、スーの3名は退席し、アリッサとドリーとスイだけが残された。
「ドリーさん、もう大丈夫です。ありがとうございます」
スイはドリーの胸から解放され、改めてアリッサの顔を見た。
「すみません、取り乱して。でももう大丈夫です」
「スイ。先程のカナメの事だけれど、セイに言われて水をあげたと云うのは、どういう事なの?」
「言葉の通りです。デフテロを見てた美崎君は、ちょっと怯えた様な表情になりました。そしたら急にセイが私に話しかけてきて、彼に水をあげる様に指示してきたのです」
「セイはカナメの事を知っていると?」
「はい。美崎君も水を飲んだ後、私にアサナギ・セイって何なんだって尋ねてきました。でも、その前の日にラボに来た時の彼は、セイと私、二人の事はよく知ってるって言ってたんです。あの人、一夜で何だか別人みたいになっちゃって…」
そう、とアリッサは黙り込んだ。ドリーがこの後予定がありますので、と退室した。スイも失礼しますと言ってドリーに続いて会議室を出た所で、要がドアの脇の壁に凭れて立っているのを見つけた。
「美崎君?」
「アサナギ、デフテロの引き渡しは止められたのか?」
「止められなかった。悲しいけど…」
そうか、と言うと、ラボへ戻ろうとするスイの後についてきた。
「何でついてくるの?」
「セイともう一度話がしたい。でもアサナギがいないと動かないから、終わる迄待っていた」
「えー、いいけど…」
スイもまたセイと話がしたかったが、セイと二人で対話したかったのだ。
スイと要がラボに戻ると、お帰り、と言いかけてユリアはスイの後ろにいた要の姿に気が付いた。
「また来たの、君」
フェイとミッコも入り口に集まってきた。資料をまとめていたチャーリーが後ろを振り返ってキョトンとした顔で要に注目した。
「ユリア、この男の子は?」
「母の計画の所のペアリングよ」
要は挨拶もせず、ずかずかとラボに入り、デフテロが眠る部屋の奥迄進んだ。要の頭の中でセイの声はせず、デフテロは静止したままだった。
「おい、アサナギ。どうしたらセイと話が出来るんだ」
「知らないよ。セイは私が呼び掛けても、全然反応しない時だってあるし」
スイと要のやり取りをうかがっていたミッコがユリアとフェイに小声で言う。
「あの少年、随分と高圧的な態度ですね」
「まるでカリグラ」
「母のラボで人間社会と接する事もなく育ったから、ああなっちゃったんじゃないかしら」
ユリアはそう言いつつも、前回彼女が会った時の要とはまるで別人の様な変貌ぶりに、思わず警戒心を露にした。
「セイ、お願い。起きて。美崎君がまた来たの」
スイの心の中の呼び掛けに、セイが微かに反応した様な気配を見せたが、一瞬にしてまた静けさだけが残った。
スイはデフテロを凝視する要を放って置いて、ユリア達の元へ行った。
「すみません、あの人を勝手に連れて来てしまって…」
「それよりスイ、貴女の方はどうだったの?」
「今日はグールド所長の他、ドリーさんとあともう3人の方と話をしました。デフテロを世界連合に引き渡さないで欲しいと伝えたのですけど、ドーキンス所長とマーギュリス所長も回線で話し合いに加わられて、子供の私が何を言おうと決定は覆らないとの事でした」
「そう…それで貴女は?ここに残るの?」
「いえ、私もここを出る事にしました」
「スイ、本当にそれでいいの?後悔しない?」
「後悔ですか?それはないです。それに、このままデフテロもなく、何も出来ない私がここに残っていても、皆さんの何のお力にもなれませんから…」
スイはユリアとフェイに改まって向き合った。
「ユリアさん、フェイさん。デフテロは私の亡き姉の細胞をベースに造られたアバターだと言うことは知ってたんですか?」
「それは…」
ユリアもフェイも、スイの真っ直ぐな瞳に見つめられ、言葉を詰まらせた。
「いいです。答えられないのでしたら。私、ここを出たら改めて姉の事も、それから私の両親の事も少しずつ自分の力で調べて行こうと思います」
そう言ってスイは要の隣に立った。
「セイと話はできた?」
「いや、全く反応がない」
「そう。私、もう帰るんだけど、いい?バイオリンの練習したいし、エミールの課題もあるし、ドリーさんの農場の手伝いもしなきゃだし」
スイも要の隣でデフテロを見て、何も反応がない事を再確認して、後ろを振り向くと、ラボの入り口にアリッサの姿があった。
「所長!」
ラボ内が一瞬でピリッとした空気に変わった。
「カナメ、随分とデフテロにご執心ね」
「アリッサ」
「他のアバターに興味を持つのはいいけれど、長時間外にいては危険だわ。そろそろ戻りなさい」
要は何か言いたげな表情をしたが、はい、と答えて素直に連れられて行った。
「すごい変わり様」
「カリグラも、リウィアの前ではただの子供って事ね」
スイはデフテロを再び顧みた。あと何度ここに来られるだろうか。セイに少しでも多く自分や家族の事を尋ねたいと思ったが、沈黙を守るデフテロに為す術もなく、今日はもう帰ろう、と思い、ロッカールームへ行きかけた。
「スイ」
「セイ!」
スイは後ろを振り返った。ラボにいたはずの自分が、青空の下に黄金色に広がる麦畑の中に立っていて、目の前に白いストラ姿のセイが立っていた。
「セイ!ごめんなさい!私、私…」
「スイ、何も言わなくてもいいよ。分かってる」
セイは両手を後ろで組んだまま、泣きじゃくるスイの方へ歩み寄った。
「でも、ありがとうね。私を守ってくれようとしてくれて」
セイはしゃがんで足元から何かを拾う仕草をした。拾い上げた手に持っていたのは、スイがかつて父親から託された1挺のバイオリンだった。
「スイにいいこと教えてあげる。モーツァルトのバイオリン協奏曲第3番第1楽章。お父様もお母様が所属していた歌劇場の管弦楽団の入団試験でこの曲を弾いたのよ」
セイはそう言って父のバイオリンを構え、最初のフレーズを奏でた。
「お父様が習ってたバイオリンの先生は、この曲は最初の1音が全てを決めるって仰ってたわ。だからお父様も、自分の納得が行く迄何度も練習なされたの」
セイは手にしたバイオリンを懐かしそうに眺めた。
「アンドレア。ニコロ・アマティが造った中で最高傑作とうたわれた名器。お父様とお母様の結婚に最後迄反対されてたお祖父様が、お母様の歌うジャンニ・スキッキのオー・ミオ・バッビーノ・カーロを聞いて、結婚を許したの。その時お祖父様がお父様に贈ったのがこのバイオリンよ」
そう言うとセイはスイの両手にバイオリンと弓を持たせた。
「アンドレアはただ音を周りに美しく響かせるだけではなく、弾き手の細やかな思いも繊細に表現してくれる。スイがアンドレアを存分に弾きこなせる様になれば、リュケイオンの公会堂よりももっと大きな舞台に立てるわ」
「セイ、もっと父さんと母さんの話を聞かせてよ。セイは実験のサンプルにされて、母さんの事を恨んでないの?」
「恨む?どうして?お母様は私が色んなものの中で生き続けられる様にして下さったのよ?私がこうやって今、ネオ・ムセイオンでスイと再度巡り会える事も見越して」
セイはスイの背後に回った。
「さあ、もう元の世界へ戻りなさい。時間よ」
スイが驚いて後ろを振り向くと、青空が急に夜空に変わり、麦畑が一斉に炎をあげた。
「セイ!」
スイは自分の背よりも高く燃え上がる火柱の中に包まれ、セイがこちらを振り向きもせず遠くへ去って行くのを、ただ見守る事しか出来なかった。




