33章
要が使ったグラスを片付け、ラボを施錠した後、スイがやっとネオ・ムセイオンからドリーの家に戻ると、既にキッチンでエルネストとロベルトが何かを調理していた。
「お帰り、スイちゃん。昨日は大変だった様だね」
いつもの軽い調子でエプロン姿のエルネストが出迎えた。
「良かったら味見してみて」
同じくエプロン姿のロベルトに一口パイの皿を差し出され、いただきます、と一つ手にとった。
「おいしい!中がスパイシーでトロッとしてるんですね」
「そう、今のはチリソース。他にもホワイトソースとチーズソースのもあるよ」
ロベルトがオーブンの中を見せてくれた。
「わあーいい匂い!ロブさん、今日はごめんなさい。私もお手伝いしたかったのに、遅くなって…」
「いいんだよ。今、サーシャが果樹園に行ってるはずだから、いくつかオレンジもらっておいで」
はい、とスイはバスケットを持って外に出た。牧草地でニックがラモーナ、クラッシュと共に羊を放牧しているのが見えた。また一方で、麦畑でドリーが彼女の教え子達を引き連れて何かを教えている様子も遠くに見えた。地上で起きているギガスとの戦いとは、全くの無関係な生活が続けられていた。スイは寂しそうな顔付きでそれらを見ていたが、無言で果樹園の方へ歩いて行った。
「サーシャさん」
果樹園内のりんごの木々が植えられているハウスの中で、脚立の上に座って木々の手入れをしていたアレクサンドルに声をかけた。
「ああ、スイちゃんお帰り。何がいるのかな?」
「ロブさんから、いくつかオレンジ貰って来てって」
「オーケー。ちょっと待ってね」
そう言って脚立から降りてきた。そしてアレクサンドルとスイと並んでオレンジのハウスへ歩いて行く途中、バイオリンの話になった。
「スイちゃん、だいぶバイオリンが上手くなったらしいじゃない。アンディ先生が絶賛していたよ」
「そうなんですか?嬉しい…」
「スイちゃん、実験もあるから難しいかもしれないけど、リュケイオンのオーケストラ部に入らないか?」
「オーケストラ?いきなり何でですか?」
「アンディ先生からの推薦さ。色んな上手い人や同世代の子達と一緒に演奏活動して、腕を磨くと良いって」
「凄い、楽しそう!でも、オーケストラに入るの、難しくないんですか?」
「確かにリュケイオンのオーケストラ部は10歳から皆入って活動してるから、遅れて入る分ネックもあるだろう。だがスイにはアンディ先生の推薦もあるから、入るかどうかは君のやる気と実技試験次第だ」
スイは空っぽのバスケットの中を見つめて黙っていたが、小声で返事した。
「サーシャさん、私、明日グールド所長に呼び出されてて。もしかしたらもうネオ・ムセイオンにいられないのかもしれないの」
「そうなの?」
「はい。もし私がネオ・ムセイオンを出る事になったら、ここも出ないといけなくなるかなあと思って」
「そうなのか。せっかくここの生活にも馴染んできた様なのに、残念だね」
オレンジの木々が植えられているハウスに着くと、ボニーの家の子供達と老人達が何人か訪れていた。アレクサンドルは挨拶をすると、彼等が収穫したオレンジの実を分けて貰い、スイが持ってきたバスケットに入れた。
「それで、スイちゃんはどうしたいと思ってるの?」
ありがとうございます、とオレンジを受け取りながら、スイは答えた。
「ネオ・ムセイオンを出ても、ドリーさんの農場か、ボニーさんの施設に置いて貰えるなら、そこの手伝いをしながらリュケイオンに通いたいです。それが叶わない様なら、柘榴食堂か、デニスさんの所で働かせて貰いたいなと」
「そうは言ってもスイちゃん未成年者でしょう。雇ってくれないよ」
アレクサンドルはスイが持つバスケットを持ってやりながら続けた。
「もしグールド所長達、理事会がスイちゃんを追い出す決断を下したとしても、ここの農場にいるメンバーは必ずスイちゃんを守ってくれるよ。皆、家族だからな」
アレクサンドルとスイが果樹園から家に戻ると、ドリーもニックも、そして他の住人達もキッチンに集まっていた。エルネストとロベルトがパイの他にも豆のサラダやローストチキンやラタトゥイユ等も完成させており、芳しい匂いを部屋中に広げていた。
「今日はニコラスの同調と地上デビューを祝して、乾杯」
エルネストの音頭で乾杯し、皆で食卓を囲んだ。昨日からあまりきちんとした食事の時間を取れていなかったスイは、久々の料理にしみじみと幸福を覚えずにはいられなかった。
話題はニックとトゥリトの昨日の活躍の話が中心だった。次の地上調査には、プロトとトゥリトで実施する予定が決まった事も聞かされた。ニックは今まで同調できなかったプレッシャーから解放されたのか朗らかだった。反対にスイはニコニコしながら、黙って聞いていた。ユリアはニックとスイを代わる代わる見ながら、時々相槌を打ちつつビールを飲んだ。
食卓では、デフテロが世界連合へ引き渡される話や、明日スイがユリアの母グールド所長に呼び出しを受けている事については一切触れられなかった。




