20章
スイは着替えてから、アンディのバイオリンのレッスンに向かうべく、ヴァーシポリス行きのバスに乗った。まだ昼間の時間だったので、バスの中はスイ以外に乗客が1人いる他、がらがらだった。スイは同調中に意識が別世界へ飛んでいた時に思い浮かんだ歌のフレーズを口ずさんだ。
「それは魔笛だね?」
バスの後方に座っていたもう一人の乗客、スイよりやや年上の若者がそれまで読んでいた書物から顔をあげ、微笑みながら話しかけてきた。
「魔笛って云うんですか?」
「そう、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した3大オペラの1つ。そのオペラの中で、ヒロインの姫君が愛する王子の愛を失ったと思い込んで嘆き悲しむアリアがその歌だ」
「詳しいんですね」
「僕の大好きなオペラ歌手が、魔笛の中に登場する、夜の女王役を最も得意としていたからね。何度も見ているうちにほとんどの曲を覚えてしまった」
「そうなんですか。私、無意識のうちにこのアリア覚えてたみたいで、曲名も作った人の事も何も知らなかった」
「もし機会があったら君も魔笛の全幕を見てみるといいよ。ちなみに僕の好きなそのオペラ歌手の名前はミト・ハルカと云う」
「ミト・ハルカ…」
じゃあね、とその若者は風の様にバスを降りて街中へと去って行った。
スイはエミールシステムの専用タブレットで今聞いたワードを検索しようとしたが、バスの方が先に目的地のバス停へ着いてしまった。
スイはタブレットを急いでしまうとバスを降り、アンディの教室兼スタジオがあるビルへ向かう途中にある柘榴食堂へ寄り道した。
「いらっしゃい」
食堂の中は昼休みピークの後の時間だったのもあり、客は誰もいなかった。
「マチウさん、こんにちは」
「こんな時間に珍しいね、今日はデニスさん留守だけど、どうしたの?」
デニスはここの食堂を始めとする、大手飲食チェーン店のオーナーで、ドリーの夫でもある。マチウはスイが訪れたこの柘榴食堂の雇われ店長だ。スイはドリーの家に住む様になり、時々他の住人ともども農場内の収穫物を届けに柘榴食堂へ来る事がたびたびあった。
「今日、早朝からずっとネオ・ムセイオン行ってて、ランチ食べそこねちゃったの。でも、もうすぐバイオリンのレッスンの時間だから、お弁当作って貰えたらと思って」
「そっか、10分位ある?」
「10分なら余裕よ。15時から始まるから」
「じゃあ適当に何か作るから、食べて行ったら?」
「ほんと?嬉しいけど、そんなすぐ出来るの?」
もちろん、と言って既にマチウは厨房に向かっていた。そして1分経つか経たないかのうちに、トレイにどんぶりを載せて戻ってきた。
「はい、お待ちどう」
わぁっとスイは歓声をあげた。どんぶりの中には、白くすべすべとした麺が盛ってあり、その上に炒めた人参ともやし、刻んだ青ネギ、 白ゴマ、もみ海苔がかかっていて、てっぺんには玉子の黄身が鎮座していた。
「これ、うどん?」
「そう、本当は日本の醤油をかけて混ぜて食べるんだけど、ないから脇の味噌を入れてよく混ぜて食べてくれ」
いただきます、とスイは箸を持った。普段フォークとスプーンしか使わないが、何故か箸の持ち方や使い方を知っている事に、自然過ぎて気がつかなかった。箸を使って器用に麺を持ち上げ、具材と味噌を絡ませた。
「さすがスイちゃん、日本人だね。箸の使い方が上手だね」
とマチウに言われて、スイは無意識のうちに箸を扱える事に内心驚いた。だがそんな様子は一切表に出さず、ニコッと笑ってチュルチュルッと麺をすすってみせた。
「どう?」
「美味しい! いつ食べたか覚えてないけど、とても懐かしい感じがする味だわ」
「そりゃよかった。実は店のメニューにない料理なんだけど、古い小麦粉が余っていたから試しに作ってみたのさ」
「そうなんですね。また時間ある時に作り方教えて貰ってもらえますか?」
「いいとも。またいつでもおいで」
スイはありがとう、と言ってチップをトレイに置き、柘榴食堂を後にした。
スイはバイオリンケースを背負い、住宅街の中にあるビルの3階にある、アンディの教室兼スタジオのドアをノックした。
「こんにちは、アンディ先生」
「こんにちは、スイ。どうぞ」
アンディの教室には、既に男の子が1人と女の子が2人いて、たどたどしく基礎練習をしていた。
「今日はちょうど皆、コンクールの1次審査の提出が終わって、審査結果と2次の課題待ちの段階だから、レッスンお休みする子も多いわ。好きなだけ練習していっていいわよ」
「はい!」
スイはバイオリンケースの蓋を開いた。K.Asanagiと書かれてある部分を見て、記憶にない父のバイオリンの音色を想像した。自分もこのバイオリンの良さを最大限に引き出せる奏者になりたい、と強く思った。
譜面台にアンディから渡された、スイの練習曲、バッハのG線上のアリアの楽譜を置く。楽譜の読み方やバイオリンの扱い方については、既に何度かのレッスンの中で学び、家に戻ってからもアレクサンドルに教わったりもしていたが、楽譜を一目見た瞬間に、どんな風に右腕を動かしていけば良いのか、左手の全ての指にどう力を加えて行けば良いのか、急に具体的な考えが一斉に開花していく様な感覚が、スイの頭の中に閃いた。
一通り弾き終わると、アンディと3人の子供達が拍手をした。
「見違えたわ、スイ。急に上達したわね」
アンディは驚いた様子も見せつつ、スイを賞賛した。
「この調子なら次の課題曲へ進んでも問題ないわ」
「ありがとうございます、先生」
子供達もスイに近より、どうやったらそんな風に弾けるの?と口々に尋ねた。スイはアンディ先生の言う事をちゃんと聞いてたくさん練習すれば弾けるようになるよ、と言いながら、スイもまた子供達と同じ様に最近バイオリン始めたばかりなんだよ、とも言った。
しばらくスイはアンディと子供達と一緒に色々な曲を練習し、あっという間に時間が過ぎた。練習を終えたスイは、アンディに質問した。
「アンディ先生、ミト・ハルカってオペラ歌手ご存じですか?」
「ミト・ハルカ? 勿論よ。彼女は今世紀最大のオペラ歌手とも、マリア・カラスの再来とも云われた、クラシック会ではとても有名な歌い手よ。でも何故?」
「とある人から、ミト・ハルカの夜の女王を見てみると良いって言われたんですけど、どうしたら見れるかなあと思って」
「残念ながら彼女の消息は不明なの。20年近く昔に突然引退して、それきり舞台にあがる事は全くなくなったわ。もし今もご存命なら、私と同世代のはずなのだけれども」
でも探せばネオ・ムセイオンかオルフェオ音楽院か、音楽系のアーカイブスの中に、ミト・ハルカに関する映像か音源が保存されているんじゃないかしら、とアンディは助言した。
スイはありがとうございます、と言って教室を出て行った。
アンディはスイを見送った後で、かつての教え子アレクサンドルにメッセージを送信した。




