12章
食事会がすむと、リビングでドリー、スイ、ユリア、アレクサンドルは食後のコーヒーを飲みながら他愛ない話をしていた。
ふとアレクサンドルがリビングの隅に置かれていたバイオリンケースに気がついた。
「このバイオリンはスイさんのかい?」
「はい」
「良かったら中を見せて貰えるかな?」
「サーシャは昔リュケイオンでオーケストラ部のメンバーだったのよ」
ユリアの説明を聞いて、スイはバイオリンをケースごとアレクサンドルに渡した。アレクサンドルはソファーに座ったまま、膝の上にバイオリンケースを載せ、静かに蓋を開いた。そして入ってた紙をちょっと見て、それから本体に掛かっていた布を静かに外した。
「これはたぶんアマティモデルだね。とても綺麗だな。ちゃんと乾燥剤も入っているし、一度メンテナンスすれば十分使えると思う」
「サーシャ、弾かないの?」
「チューニングしたら弾けるが、暫く使っていなかったんだろう?念のため工房でチェックしてからの方が良いだろう」
「チューニングしたら、弾けるんですか?」
「そうだよ、スイさん。楽器は使い続けてこそ、良さと価値が維持されるものだ。君は弾かないの?」
「お父さんのものなんです」
「そうか。でもこんな美しいバイオリンなんだ、せっかくなら君も習って弾いたらいい」
「ありがとうございます。でもどこで?」
「昔僕がお世話になった先生を紹介しよう。それと修理工房も」
一晩スイはドリーの家に泊まり、翌日から新しい生活を始めた。日中はネオ・ムセイオンのチーム6のラボで過ごし、セイが話しかけて来るのを待った。リュケイオンの制服と、エミールシステムの専用タブレットを貰っていたので、空き時間はすべて自主学習に費やした。夜は与えられた寮に戻り、そこでも更にエミールでの学習を進めた。
エミールシステムとは、専用タブレットを通じてマンツーマンで進められるオンライン教育のシステムで、受講者それぞれのレベルに合わせて、好きな教科、得意な科目はどんどん先へ進められ、苦手な科目は分かる様になるまで幾度となく教えて貰える、世界共通の教育システムである。自分でペースで進められるとは言え、それなりに宿題も出た。だが、他の生徒の目もないので、教育が遅れていたスイも気兼ねなく自主学習に打ち込めた。ちなみに基礎生物学の授業にはユリアが出てきた。
2日ほどほぼ1人で過ごしたスイは、結局寮を出てドリーの家に住むことにした。ユリアとはチーム6のラボでもエミール内でも顔を合わせていたが、ドリーや他の人と一緒の生活の方がどこか安心できたのだった。
ドリーの家に住むことになると、もれなく農場内での役割分担が与えられた。新入りなので、1週間ずつ先の住人達が担当している農作業の手伝いをすることと、リビングやキッチン等の共有スペースの片付けや掃除の当番に加わること、その代わり農場内で採れた物は好きなだけ食べる事ができたから、飢える心配はなくなった。
スイがドリーの家に住む様になって次の日、アレクサンドルはスイを連れてバイオリンのメンテナンスをしてくれる工房へ連れて行ってくれた。スイの父の形見は年代物のオールドイタリアンで、かなりの値打ちがあるものらしく、定期的に見て貰う様にすると良いとの助言と共にスイの手元に返された。また、スイはアレクサンドルがかつてレッスンを受けていた音楽教師、アンディ・ルーを紹介され、空き時間にレッスンを受ける様になった。
ドリーの家の女子部屋のベッドで、スイは時々バイオリンケースに入っていた紙を見た。スイはエミールで共通言語である英語と、第2言語でスペイン語を履修していたが、どちらとも異なる言語で書かれていた。ロシア語に通じているアレクサンドルにも見せたが、これはロシア語ではないよとの事で、行き詰まっていたところ、アイーシャがコンピュータに取り込むと自動で翻訳してくれるウェブサイトを教えてくれた。だが、スイが実際にサイトへアクセスしてデータを取り込んで見た所、解読不能という結果であった。
そんな謎の言葉で書かれている紙、この紙について教えてくれた少年は、ここにいるから会いに来て、と言った。この紙は場所を表す言葉が書かれているのだろうか。それとも何か、彼と自分を繋ぐ手掛かりが書かれているのだろうか。スイの頭の中を様々な想像が駆け巡るが、いつも頭の中のマラソン大会が終わる頃には、ヒュノプスがぶっちぎりの優勝を飾り、彼女は安らかな眠りに落ちているのであった。
そしていよいよ、ジェシカ&プロトと共に、デフテロで地上に再び降り立つ日がやって来た。




