第九話 茶碗が割れる音
茶碗が飛んだのは、何の前触れもなかった。
その日、信長は上機嫌で来た。上機嫌のまま、丹波の話をした。誰を行かせるかという話であった。名が三つ挙がり、三つとも彼自身が否定し、四つ目を言いかけたところで、森が階段の上から声をかけた。
「上様。越前より使者が」
「後にせよ」
「されど」
「後にせよと申した」
「……勝家様が、直にお越しと」
信長の手が、止まった。
次の瞬間、茶碗が飛んだ。
壁に当たって、砕けた。
破片が土間に散った。蔵の中で、それはひどく大きな音がした。
森が、階段を駆け降りてきた。膝をつき、手を伸ばし、破片を集めようとした。
「触らないでください」
桐庵が言った。
森が顔を上げた。
「切りますよ」
「……は」
「もう少し、明るくなってからにしましょう」
桐庵は立ち上がり、破片のところまで行って、しゃがみ込んだ。
一つ拾い上げて、灯りにかざした。
「いい割れ方ですね」
蔵の中が、静まり返った。
「割れ方に、良いも悪いもあるか」
信長の声は、低かった。
「ありますよ。これは、縁から割れてます。中心から砕けたのは、質が悪いんです」桐庵は破片を裏返した。「これは、いい土です」
信長は、何も言わなかった。
桐庵は破片を土間に戻し、壁際を振り返った。
「燈さん。箒を」
「嫌です」
「片づけを」
「しません」
「なぜです」
「わたしが割ってません」
燈は膝を抱えたまま、動かなかった。
信長が、彼女を見た。
「女」
「はい」
「余が割った」
「知ってます」
「ならば片づけよ」
「割った人が片づけるものです」
森が、両手で顔を覆った。
信長は立ち上がった。
燈のほうへ二歩踏み出し——そこで止まった。
止まって、しばらく立っていた。
それから、向きを変えた。
しゃがんだ。
土間の破片を、拾いはじめた。
森が、声にならない音を出した。桐庵は何も言わなかった。燈は膝を抱えたまま、それを見ていた。
信長は十いくつの破片を拾い、掌に集めた。最後の一片を取ろうとして、指が滑った。
小さく、舌打ちをした。
人差し指の付け根が切れていた。血が一筋、掌に集めた破片の上に落ちた。
桐庵が、薬籠を開けた。
「見せてください」
「かすり傷だ」
「見せてください」
信長は、手を出した。
桐庵はその手を取った。
初めて、この男の体に触れた。手は大きく、指は細く、そして——冷たかった。夏である。蔵の中でも汗をかく夜である。それでも、指先が冷たかった。
桐庵は傷を水で洗い、布を当て、細く裂いた麻で巻いた。巻きながら、脈を見た。速い。ずっと速い。
「いかがした」
「いえ」
桐庵は結び目を作った。
「上様」
「なんだ」
「お腹立ちは、もう済みましたか」
信長は、自分の手を見た。
「……済んだ」
「早いですね」
「早いか」
「早いです。普通の人は、もっと長く怒っています」
信長は、包帯の巻かれた指を曲げてみた。
「余は、怒りが長く続かぬ」
「ええ」
「それは、良いことか」
桐庵は薬籠を閉じた。
「怒りで何かが解決したことがある人は、長く怒れるんです」
信長は、動かなかった。
やがて彼は、掌の破片を土間の隅にまとめ、立ち上がった。
階段の三段目まで上ってから、振り返った。
「医者」
「はい」
「勝家は、何を言いに来たと思う」
「存じません」
「遅い、と言いに来るのだ。越前は遠い、支度に時がかかると」信長は手すりを掴んだ。「余には、それが分からぬ」
「遠いことがですか」
「時がかかることが」
そう言って、彼は上っていった。
蔵に残った桐庵は、しばらく破片の山を見ていた。
燈が台の上から言った。
「箒、そこにありますけど」
「知ってます」
「渡さなかったの、わざとですか」
桐庵は答えなかった。
かわりに、破片を一つだけ拾って、懐に入れた。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇一
氏名 織田上総介信長
年齢 四十二
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主訴
家臣どもの仕事が遅い。
所見
器物を投擲。発作は短く、鎮静も速い。
自ら破片を拾う。指に裂傷。
脈、速。指先、冷。夏である。
「時がかかることが分からぬ」と発語。
診断
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処方
傷の手当。ならびに、箒を渡さぬこと。
備考
怒りが長く続かぬ者は、
怒りで何かを解決した経験が、ない。
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