第十話 誰も追いつけない
その女は、供を三人連れてきた。
三人とも階段の上で待たされ、降りてきたのは一人だった。良い衣を着ていたが、目立たない色を選んでいた。人目を避けて来たのだと、桐庵にも分かった。
彼女は蔵を一通り見渡し、燈を見て、それから桐庵を見た。
「ここが、あの診療所か」
「あの、というほどのものでは」
「馬に灸を据える医者がいると聞いた」
「据えようとしただけです」
女は、わずかに笑った。
桐庵は床几を引いて、正面に置いた。彼女は一瞬それを見て、それから座った。座ってから、距離が近いことに気づいて、身を引きかけた。
引きかけて、やめた。
「主訴は」
「しゅそ」
「困っていることです」
女はしばらく黙っていた。
それから言った。
「夫が、家に帰らぬ」
桐庵は筆を取った。
「いつからですか」
「二十年ほど」
筆が止まった。
「二十年」
「そう」
「それは、長いですね」
「長い」女は膝の上で手を重ねた。「帰らぬと申しても、城にはおる。同じ屋根の下におる。ただ、おらぬ」
「顔は合わせますか」
「合わせる」
「話は」
「する」
「では、何がないんです」
女は、その問いに少し驚いた顔をした。
考えている顔になった。桐庵は待った。
「……止まらぬ」
彼女はそう言った。
「あの人は、止まらぬ。廊下を歩きながら話し、話しながら次のことを決め、決めながらもう次へ行っておる。わたくしが返事をする頃には、もう別の部屋におる」
「はい」
「以前は、それが心地よかった」
「今は」
「今も心地よい」女は目を伏せた。「ただ、疲れた」
桐庵は、筆を置いた。
「奥方様」
「濃と申す」
「濃様。一つ伺ってもよいですか」
「申せ」
「上様は、待つということを、ご存じですか」
濃姫は、顔を上げた。
そして、はっきりと言った。
「知らぬ」
「できないんですか」
「できぬのではない」
彼女は少し首を傾げた。言葉を選んでいた。
「待ち方を、教わらなんだのです」
桐庵の手が、止まった。
止まったことに、彼自身が遅れて気づいた。
筆が膝の上にあった。紙は白いままだった。彼は紙を見ていた。何も書いていない紙を、少し長く見ていた。
「……先生」
「はい」
「いかがした」
「いえ」
桐庵は筆を持ち直した。
「今、何と」
「待ち方を教わらなんだ、と」
「そうでしたね」
彼は書いた。書いてから、もう一度読み返した。
濃姫は、その様子を見ていた。見ていて、何も言わなかった。
壁際の台の上で、燈も見ていた。
燈のほうは、桐庵の顔を見ていた。
「あの人の父御は、人を待たぬ人でした」
濃姫が続けた。
「兄も、待たぬ人でした。あの家では、待つ者は死にました」
「なるほど」
「わたくしの家も、同じでした」
「そうですか」
「だから、わたくしにも教えられぬ」
蔵の中が、静かになった。
濃姫は膝の上で手を重ね直し、それから言った。
「あの人は、天下を取ると申しております」
「伺いました」
「取ったあと、どうなさるおつもりか、一度も申されませぬ」
桐庵は、うなずいた。
うなずいただけで、何も言わなかった。
やがて濃姫は立ち上がり、蔵を出ようとして、階段の一段目で振り返った。
「先生」
「はい」
「あの人を、どこかへ連れ出してくださいませぬか」
「どこへ」
「どこでも。城の外へ」
彼女は少し考えて、付け足した。
「あの人は、外へ出るとき、必ず何かのために出ます。何のためでもなく外へ出たことが、たぶん、一度もありませぬ」
濃姫が去ったあと、桐庵は長いこと座っていた。
燈が、台から降りてきた。
降りてきて、桐庵の前に立った。
「診察代」
「請求先は、もう帰りましたよ」
「そうじゃなくて」
燈は、桐庵を見下ろしていた。
「さっき、止まってましたね」
「止まってません」
「止まってました」
桐庵は紙を丸めて、膝の脇に置いた。
「訊かないでください」
燈は、しばらくそこに立っていた。
それから、台に戻った。
戻って、銭を数えはじめた。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇二
氏名 濃(織田上総介室)
年齢 四十二
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主訴
夫が家に帰らぬ。二十年。
所見
夫の不在を、不満としてではなく疲労として語る。
自責なし。恨みなし。
「待ち方を教わらなんだ」と、夫を評す。
診断
──
処方
——
備考
待ち方は、誰かが教えるものである。
教わらなかった者を責めても、始まらぬ。
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