第十一話 走る魔王
その日、桐庵は薬籠を持たずに城へ行った。
通されたのは、いつもの部屋だった。信長は文机の前にいた。筆を持ち、書きかけの書状があり、脇には開封済みの山と未開封の山があった。
「呼んでおらぬ」
「呼ばれていません」
「では何用だ」
「外へ出ませんか」
信長は筆を置いた。
「どこへ」
「どこでもいいです」
「用件は」
「ありません」
信長は、桐庵を見た。
それから、書きかけの書状を見た。それから、また桐庵を見た。
「用件がないのに、なぜ出る」
「出ませんか」
「問いに答えよ」
「答えると、上様は行かないので」
信長は、しばらく黙っていた。
黙ってから、立ち上がった。
夏の終わりだった。
長良の河原は、日が傾きはじめて、水面が白く光っていた。葦が伸び、風が通ると一斉に同じ方向へ倒れた。遠くで水鳥が鳴いた。
供はいなかった。森は城の門で止められた。信長が止めたのである。
二人は水際まで歩いた。
「これで、何をする」
「走りましょう」
「走る」
「ええ」
「なぜ」
「理由はありません」
信長は、河原の石を見た。丸い石が延々と続いていた。それから上流を見て、下流を見た。
「どこまで」
「あの木まで」
桐庵が指したのは、二町ほど先に立つ、一本の榎だった。
「勝負か」
「違います」
「では何だ」
「走るだけです」
信長は、袴の裾を帯に挟んだ。
「行くぞ」
言い終わる前に、走り出した。
桐庵は、少し遅れて走り出した。
最初の五十歩は、ほとんど並んでいた。
桐庵は肉付きがよく、四十一年生きてきて、走ったのは十年以上前が最後だった。それでも五十歩は並んだ。
次の五十歩で、離れた。
石が転がる。足が沈む。息が上がる。腹の肉が揺れる。桐庵は自分の呼吸の音が、耳のすぐ内側で鳴っているのを聞いた。
前を見た。
信長の背中が、遠かった。
速い。走り方が速いのではない。迷いがないのである。どの石を踏むかを選んでいない。選ばずに踏んで、外さない。
桐庵は、追うのをやめた。
やめたのではなく、体が止まった。膝に手をついた。息が喉で鳴った。汗が顎から落ちて、石を一つ濡らした。
顔を上げた。
信長は、まだ走っていた。
榎に着いた。
手をついた。
そして、振り返った。
桐庵は、その顔を見ていた。
二町離れていて、顔など見えるはずがなかった。それでも見えた気がした。
信長は、振り返った姿勢のまま、動かなかった。
河原には、誰もいなかった。
葦が鳴っていた。水鳥が一羽、下流へ飛んでいった。日が低くなり、石の影が長くなった。
信長は、そこに立っていた。
長いこと、立っていた。
やがて彼は、歩き出した。
戻ってきた。
走らずに、歩いて戻ってきた。
桐庵の前まで来て、止まった。息が上がっていた。額に汗があった。
「遅い」
「すみません」
「遅すぎる」
「ええ」
信長は、河原に座った。
座って、石を一つ拾い、投げた。水面で二度跳ねて、沈んだ。
桐庵も、隣に座った。
二人は、しばらく何も言わなかった。
日が沈みかけていた。
「医者」
「はい」
「余は、いつもああだ」
「はい」
「着いてから、振り返る」
彼はもう一つ石を拾った。今度は投げなかった。掌の中で転がした。
「いつもだ」
桐庵は、川を見ていた。
「桶狭間のときも、稲葉山のときも、長篠のときもだ。着いて、振り返る。皆はまだ後ろにおる。まだ走っておる」信長は石を握った。「余は、待たねばならぬ」
「待てますか」
「待てぬ」
「なぜです」
「待っておるあいだに、次が見えるからだ」
彼は石を置いた。
「見えたら、もう走っておる」
風が通った。葦が倒れた。
桐庵は膝を抱えて、水面を見ていた。
「上様」
「なんだ」
「さっき、榎のところで振り返って、しばらく動きませんでしたね」
信長は答えなかった。
「あのとき、何を考えていました」
長い沈黙があった。
川の音がした。
それから、信長が言った。
「……誰も、来ぬ」
声が、小さかった。
桐庵は、川を見たままでいた。
「そう思われたんですね」
「思った」
「いつも、そう思うんですか」
「いつもだ」
信長は膝に肘をつき、顎を乗せた。天下人がする姿勢ではなかった。
「余は、皆が遅いと思うておる。遅いから苛立つ。苛立って、怒鳴る」
「はい」
「だが、あれは」
彼は言葉を切った。
切って、しばらく探した。
そして、見つけた。
「……あれは、置いていかれておるのは、余のほうではないかと思う」
桐庵は、動かなかった。
何も言わなかった。
言葉を探さなかった。言い換えもしなかった。慰めもしなかった。
ただ、隣に座っていた。
日が沈んだ。
二人は、暗くなるまでそこにいた。
帰り道、城の門が見えるところまで来て、信長がふいに言った。
「明日も来い」
「はい」
「城ではない」
「では、どちらへ」
「あの木だ」
桐庵は足を止めた。
「走るんですか」
「走らぬ」
信長は前を向いたまま、歩き続けた。
「歩く」
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診 療 録
患者番号 〇〇〇一
氏名 織田上総介信長
年齢 四十二
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主訴
家臣どもの仕事が遅い。
所見
用件なく外出。生涯で初と思われる。
二町を走破。振り返り、静止。
「置いていかれておるのは余のほうではないか」と発語。
診断
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処方
明日、歩く。
備考
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