第十二話 診療録・織田信長
夏が終わった。
九月に入って、信長は忙しくなった。越前の後始末があり、京の用があり、丹波の人選があった。それでも三日に一度は蔵へ降りてきた。降りてきて、粥を食べ、鶏を見て、帰った。
鶏には名がついていた。信長がつけた。「十八」という。値段である。
その日、信長は昼過ぎに来た。
台に座り、しばらく黙っていた。それから言った。
「医者」
「はい」
「余は、治ったか」
桐庵は、書きかけの紙を伏せた。
「治っていません」
「ふむ」
「もともと、治す病ではありませんでした」
「では、この二月は何であった」
桐庵は床几を引いて、正面に座った。
膝が触れそうな距離である。信長はもう、身を引かなかった。
「速い人が、速いまま生きる方法を探していました」
「見つかったか」
「一つだけ」
「申せ」
「振り返るのを、やめないことです」
信長の眉が動いた。
「やめよ、ではないのか」
「ええ。やめないでください」桐庵は言った。「上様は、着いてから振り返る。そして誰もいない。それは辛いでしょう。でも、振り返るのをやめた人は、二度と誰も連れてこられません」
「……」
「遅い人を待てないなら、待たなくていいです。ただ、振り返るのだけは、やめないでください」
信長は、しばらく桐庵を見ていた。
それから、鼻から息を吐いた。
「それは、治療か」
「助言です」
「医者の仕事か」
「たぶん、違います」
信長は、笑った。
声を立てて笑った。笑ってから、立ち上がり、蔵の中を二歩歩き、振り返り、戻ってきた。相変わらず座っていられない。
「医者」
「はい」
「余は、丹波へ人を出す」
「そうですか」
「光秀を出す」
桐庵は、その名を初めて聞いた。
「どういう方です」
「よく働く」
「それは、良いことですか」
信長は、質問の意味が分からないという顔をした。
分からないまま、答えた。
「よく働く者は、良いに決まっておろう」
桐庵は、何も言わなかった。
信長が帰り支度を始めた。階段に足をかけたところで、桐庵が声をかけた。
「上様」
「なんだ」
「灸、しましょうか」
「要らぬ」
「一度くらい」
「要らぬ」
信長は三段上って、止まった。
それから、懐に手を入れた。
振り返り、何かを台の上に置いた。
銭であった。
「なんです、これは」
「代金だ」
蔵の中が、止まった。
燈が、膝を抱えたまま、台の上の銭を見ていた。
桐庵は首を振った。
「いただいていません」
「知っておる」
「では」
「余は、払うのが嫌いだ」信長は階段を上りながら言った。「払わずに済ませたことが、どうにも落ち着かぬ」
「落ち着かないほうが、よろしいのでは」
「うるさい」
十三段を上る足音が、軽かった。
足音が消えてから、燈が台から降りてきた。
銭を数えた。
数えて、もう一度数えた。
「多い」
「そうですか」
「三倍です」
「では、返してきてください」
「嫌です」
燈は銭を袖に落とした。落としてから、動かなかった。
「先生」
「はい」
「あの人、明日も来ますか」
「来ますよ」
「なぜ分かるんです」
桐庵は、伏せていた紙を起こした。
診療録である。
彼は筆を取り、備考の欄に、この二月のあいだ書けずにいた一行を書いた。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇一
氏名 織田上総介信長
年齢 四十二
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主訴
家臣どもの仕事が遅い。
所見
睡眠、やや改善。夜間の書状、減少。
新奇物への依存は不変。
用件のない外出を、自ら提案するようになった。
治療費を、自ら支払う。
診断
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処方
次回、必ず来ること。
備考
速さは、病ではない。
ただし独りで走る者は、
いつか自分の足音を、敵と間違える。
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筆を置いて、桐庵は紙を綴じに挟んだ。
綴じは、まだ薄かった。
鶏が、表で鳴いた。
十八は、時を知らせる役には立たなかった。昼でも夜でも、思い出したように鳴いた。それでも桐庵は、そのたびに顔を上げた。




