↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/26

第十二話 診療録・織田信長


 夏が終わった。


 九月に入って、信長は忙しくなった。越前の後始末があり、京の用があり、丹波の人選があった。それでも三日に一度は蔵へ降りてきた。降りてきて、粥を食べ、鶏を見て、帰った。


 鶏には名がついていた。信長がつけた。「十八」という。値段である。


 その日、信長は昼過ぎに来た。


 台に座り、しばらく黙っていた。それから言った。


「医者」


「はい」


「余は、治ったか」


 桐庵は、書きかけの紙を伏せた。


「治っていません」


「ふむ」


「もともと、治す病ではありませんでした」


「では、この二月は何であった」


 桐庵は床几を引いて、正面に座った。


 膝が触れそうな距離である。信長はもう、身を引かなかった。


「速い人が、速いまま生きる方法を探していました」


「見つかったか」


「一つだけ」


「申せ」


「振り返るのを、やめないことです」


 信長の眉が動いた。


「やめよ、ではないのか」


「ええ。やめないでください」桐庵は言った。「上様は、着いてから振り返る。そして誰もいない。それは辛いでしょう。でも、振り返るのをやめた人は、二度と誰も連れてこられません」


「……」


「遅い人を待てないなら、待たなくていいです。ただ、振り返るのだけは、やめないでください」


 信長は、しばらく桐庵を見ていた。


 それから、鼻から息を吐いた。


「それは、治療か」


「助言です」


「医者の仕事か」


「たぶん、違います」


 信長は、笑った。


 声を立てて笑った。笑ってから、立ち上がり、蔵の中を二歩歩き、振り返り、戻ってきた。相変わらず座っていられない。


「医者」


「はい」


「余は、丹波へ人を出す」


「そうですか」


「光秀を出す」


 桐庵は、その名を初めて聞いた。


「どういう方です」


「よく働く」


「それは、良いことですか」


 信長は、質問の意味が分からないという顔をした。


 分からないまま、答えた。


「よく働く者は、良いに決まっておろう」


 桐庵は、何も言わなかった。


 信長が帰り支度を始めた。階段に足をかけたところで、桐庵が声をかけた。


「上様」


「なんだ」


「灸、しましょうか」


「要らぬ」


「一度くらい」


「要らぬ」


 信長は三段上って、止まった。


 それから、懐に手を入れた。


 振り返り、何かを台の上に置いた。


 銭であった。


「なんです、これは」


「代金だ」


 蔵の中が、止まった。


 燈が、膝を抱えたまま、台の上の銭を見ていた。


 桐庵は首を振った。


「いただいていません」


「知っておる」


「では」


「余は、払うのが嫌いだ」信長は階段を上りながら言った。「払わずに済ませたことが、どうにも落ち着かぬ」


「落ち着かないほうが、よろしいのでは」


「うるさい」


 十三段を上る足音が、軽かった。


 足音が消えてから、燈が台から降りてきた。


 銭を数えた。


 数えて、もう一度数えた。


「多い」


「そうですか」


「三倍です」


「では、返してきてください」


「嫌です」


 燈は銭を袖に落とした。落としてから、動かなかった。


「先生」


「はい」


「あの人、明日も来ますか」


「来ますよ」


「なぜ分かるんです」


 桐庵は、伏せていた紙を起こした。


 診療録である。


 彼は筆を取り、備考の欄に、この二月のあいだ書けずにいた一行を書いた。


──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇〇一


 氏名 織田上総介信長

 年齢 四十二

──────────────────

 主訴

  家臣どもの仕事が遅い。


 所見

  睡眠、やや改善。夜間の書状、減少。

  新奇物への依存は不変。

  用件のない外出を、自ら提案するようになった。

  治療費を、自ら支払う。


 診断

    ──


 処方

  次回、必ず来ること。


 備考

  速さは、病ではない。

  ただし独りで走る者は、

  いつか自分の足音を、敵と間違える。

──────────────────


 筆を置いて、桐庵は紙を綴じに挟んだ。


 綴じは、まだ薄かった。


 鶏が、表で鳴いた。


 十八は、時を知らせる役には立たなかった。昼でも夜でも、思い出したように鳴いた。それでも桐庵は、そのたびに顔を上げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。