第十三話 雪の戸
戸が、重かった。
桐庵は両手で押した。板の向こうで、何かが崩れる音がした。隙間から白いものが落ちてきて、足元で溶けた。
雪だった。
彼は戸を押し開けて、外へ出た。
膝まで埋まった。
目の前に、見たことのない山があった。稲葉山ではない。もっと高く、稜線が鋭く、頂が雲の中に消えていた。手前には杉の林があり、その向こうに藁葺きの屋根がいくつか見えた。煙が上がっていた。
桐庵は、しばらくそこに立っていた。
昨日は九月だった。
昨日は、鶏が鳴いて、汗をかいて、信長が来て、帰った。
「燈さん」
振り返って呼んだ。
返事はなかった。もう一度呼ぶと、蔵の奥から声がした。
「なんです」
「雪です」
「そうですか」
「昨日は九月でした」
「そうですか」
桐庵は蔵へ戻った。
燈は台の上にいた。膝を抱えて、いつもと同じ姿勢で座っていた。蔵の中は昨日とまったく変わっていない。彼が敷いた筵も、並べた器も、綴じた診療録も、そこにある。
変わったのは、戸の外だけだった。
「燈さん」
「なんです」
「驚かないんですね」
「驚いても、雪は溶けません」
桐庵は薬籠を背負い、外へ出た。
雪を漕いで、煙の上がっているほうへ歩いた。四半刻ほどで、村に着いた。
人の装束が違った。着ているものが厚く、藁を編んだ沓を履いていた。子どもが二人、雪の上で棒を振り回していた。桐庵を見て、動きを止めた。
井戸端にいた年寄りに、桐庵は声をかけた。
「ここは、どちらですか」
「甲斐じゃ」
桐庵は、ゆっくりうなずいた。
「今年は、何年でしょう」
年寄りは、汲んだ桶を置いた。
「永禄四年」
風が、杉を鳴らした。
桐庵は、そのまましばらく立っていた。
「……そうですか」
「お前さま、どこの者じゃ」
「かなり遠くです」
「そうは見えぬがの」
「歩いては、帰れません」
年寄りは、それきり何も訊かなかった。桶を担いで、家のほうへ歩いていった。
蔵へ戻ったのは、日が傾いてからだった。
桐庵は雪を払って、十三段を降りた。
燈は、まだ台の上にいた。
「永禄四年だそうです」
「はい」
「私がいたのは、天正三年でした」
「はい」
「十四年、戻りました」
燈は膝を抱えたまま、動かなかった。
桐庵は板を並べ、器を拭き、湯を沸かす支度をした。手が止まらなかった。止めたくなかったのだと、あとから思った。
「燈さん」
「なんです」
「戻れますか」
燈は、少し黙った。
それから言った。
「戻った人を、見たことがありません」
桐庵の手が、止まった。
止まって、また動いた。
「そうですか」
「訊かないんですか」
「何をです」
「見たことがない、というのは、どういうことか」
桐庵は、湯の支度を続けた。
「燈さんが言いたくなったら、聞きます」
燈は、それきり何も言わなかった。
三日のあいだに、村の者を三人診た。
一人は腰の痛む婆で、一人は乳の出ない女で、一人は夜中に叫ぶという十四の娘だった。三人とも、名を名乗らなかった。名乗らせもしなかった。
桐庵は、番号だけ付けた。
〇〇〇三、〇〇〇四、〇〇〇五。
そのうちの二人は、二度と来なかった。
残りの一人は、それから毎日、薪を置いていくようになった。
その夜、桐庵は看板を外へ立てた。
雪の上に、板を突き立てた。炭の字は、濡れて少し滲んでいた。
よろづ こころの療治
戻ってきて、筵に座り、紙を出した。
書くことがなかった。
患者が来ていない。
それでも彼は、一枚に線を引いた。
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診 療 録
患者 なし
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主訴
——
所見
——
診断
──
処方
——
備考
戸の向こうが、昨日と違う年であった。
それだけのことである。
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筆を置いたとき、雪を踏む音がした。
重い音だった。一人ではない。
桐庵は立ち上がって、階段を見上げた。
十三段の上に、影が立っていた。背が低く、横に広い。その後ろに、もう三つ。
いちばん前の影が、口を開いた。
「医者と申したか」




