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偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


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第十四話 父を追った男


 その男は、階段を降りるのに時間をかけた。


 降り慣れていないからではない。体が重いからである。一段ごとに板がきしみ、最後の三段は手すりを掴んで降りた。


 降りきって、彼は蔵を見回した。


 四十を少し過ぎたあたりに見えた。肩も腹も厚く、首が太く、頭を剃っていた。眉が濃く、目が細い。人を見るとき、まず全体を見て、それから一点を見る。信長とは逆だった。信長は最初の一瞬で決める。この男は、時間をかけて決める。


 背後の三人は、階段の途中で止まった。降りてくるなと命じられていた。


「座ってよいか」


「どうぞ」


 男は台に腰を下ろした。板が沈んだ。


 桐庵は床几を引いて、正面に置いた。


 膝が触れそうな距離である。


 男は、その床几をしばらく見ていた。


「近いな」


「診察ですので」


「医者というものは、皆こうか」


「私だけだと思います」


 男は、低く笑った。


 笑い方が腹から出ていた。


「名は」


「桐庵と申します」


「儂は、晴信という」


 桐庵は筆を取った。


 躑躅ヶ崎の館の主が、この時期この名を名乗るということの意味を、彼は知っていた。知っていて、何も言わなかった。


「主訴は」


「しゅそ」


「困っていることです」


 晴信は、太い指を膝の上で組んだ。


 組んで、しばらく黙っていた。


「眠れぬ」


「いつからですか」


「長い」


「どのくらい」


 男は答えなかった。


 桐庵は待った。


 蔵の中で、湯が沸く音だけがしていた。燈は台の上で、いつも通り膝を抱えている。三人の家臣は階段の途中で息を詰めている。


「二十年ほどだ」


 晴信は、そう言った。


 桐庵は書いた。


「そのとき、何かありましたか」


 男の目が、動いた。


 一瞬だけである。すぐ元に戻った。


「……ある」


「伺ってもいいですか」


「ならぬ」


 桐庵は、筆を置いた。


「分かりました」


 晴信の眉が、上がった。


「分かった、と申したか」


「はい」


「訊かぬのか」


「訊きません」


 後の世に、この状態には名前がついている。


 不眠症、という。


 眠れないことそのものを、一つの病として数える。寝つけない、途中で覚める、早く覚めすぎる。そのどれかが起きていて、そのせいで昼のうちに支障が出ている。疲れが取れない、気が散る、腹が立ちやすくなる。


 名前がつくのは、それが週に三晩以上あって、三月続いたときである。


 もう一つ、外せない条件がある。眠る時間そのものは、足りていること。忙しくて寝ていないのは、不眠症ではない。眠れる時間があるのに眠れないのが、不眠症である。


 この人には、時間があった。


 二十年あった。


 もっとも、と桐庵は思った。


 三日眠れない人間なら、どこにでもいる。決めたことを持ち帰る立場にいれば、夜に頭は動く。動かないほうが珍しい。三日眠れないのはその人の置かれた場所の話で、三月眠れないのが病の話である。


 境目にあるのは、症状の重さではない。長さである。


 男は、身を乗り出した。


 台がきしんだ。


「医者というものは、根を掘るものであろう」


「掘る医者もいます」


「お主は掘らぬのか」


「掘りません」


「なぜだ」


 桐庵は、湯を汲んだ。椀に注いで、台の上に置いた。


「開けた者は、閉じ方を知らないからです」


 晴信は、椀を見た。


 取らなかった。


「二十年、誰にも申しておらぬ」


「そうでしょうね」


「なぜ分かる」


「二十年眠れていないからです」桐庵は言った。「誰かに一度でも言えていれば、もう少し眠れています」


 蔵が、静かになった。


 階段の上で、家臣の一人が身じろぎをした。板が鳴った。


 晴信は椀を取り、湯を飲んだ。


 飲み終えてから、言った。


「儂は、父を追った」


 桐庵は、何も書かなかった。


 筆を持ったまま、動かさなかった。


「駿河へ送った。二度と甲斐へ入れなんだ。生きておる」晴信は椀を置いた。「今も、生きておる」


「はい」


「儂が追わねば、この国は割れた」


「はい」


「儂は、間違うておらぬ」


 桐庵は、うなずいた。


 うなずいて、言った。


「そうでしょうね」


 晴信が、顔を上げた。


 その顔を、桐庵は正面から見ていた。


「正しいことをした人は、よく眠れるものです」桐庵は言った。「上様は、眠れていません」


 男は、答えなかった。


 しばらくして、彼は立ち上がった。


 台が軋んだ。彼は蔵の梁を見上げ、それから階段のほうを見た。


「医者」


「はい」


「明日も来てよいか」


「どうぞ」


「診療代は」


「取りません」


 台の上で、燈が顔を上げた。


「取ります」


 晴信が、彼女を見た。


「女」


「はい」


「いくらだ」


「三十文」


「高い」


「そうですか」


「儂は、二十文で買う」


 燈は、少し黙った。


 それから言った。


「二十五」


「よかろう」


 晴信は懐から銭を出し、台の上に置いて、十三段を上っていった。


──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇〇六


 氏名 武田大膳大夫晴信(出家名・信玄)

 年齢 四十一

──────────────────

 主訴

  眠れぬ。二十年。


 所見

  入眠困難と思われる。詳細の申告なし。

  二十年間、他者に語ったことがないと本人申告。

  「儂は間違うておらぬ」と、問われぬうちに述べた。


 診断

    ──


 処方

  明日、来ること。


 備考

  語らぬと決めた者を、こじ開けてはならぬ。

  開けた者は、閉じ方を知らぬ。

──────────────────


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