第七話 眠らない城
信長は、翌日は来なかった。
かわりに、森が来た。
夜である。松明も持たず、走ってきたらしく、髪が乱れていた。階段を三段飛ばしで降りてきて、蔵の真ん中で膝に手をついた。
「先生」
「はい」
「上様が、三日、眠っておられぬ」
桐庵は筵から起き上がった。
「三日」
「四日かもしれませぬ。誰も正確には」
「誰も見ていないんですか」
「見ております。皆、見ております」森の声が上ずった。「見ておりますが、誰も申せませぬ」
桐庵は立ち上がり、薬籠を掴んだ。
燈が、台の上から言った。
「夜の往診は割増です」
「誰に請求するんです」
「そこの若い人に」
森が、真っ青になった。
岐阜城の一室には、灯りがついていた。
桐庵が案内されて入ると、信長は絵図の前に座っていた。広げた紙の上に石を置き、指で線をなぞり、また石を動かしている。振り返らなかった。
「なぜ来た」
「呼ばれたので」
「呼んでおらぬ」
「呼ばれました」
桐庵は部屋の隅に座った。
それきり、何も言わなかった。
信長は絵図を見ていた。石を置き、動かし、また置いた。書状を取り、封を切り、読み、脇に投げた。筆を取り、何か書いた。書いてから、丸めて捨てた。また絵図に戻った。
四半刻が過ぎた。
半刻が過ぎた。
部屋には蝋燭が二本立っていて、そのうち一本が短くなり、やがて消えた。桐庵は消えるまで見ていた。
一刻が過ぎた。
信長が、振り返った。
「何をしておる」
「座っています」
「それは見れば分かる」
「では、それです」
「何しに来た」
「いるだけです」
信長は、桐庵を見た。
それからまた、絵図に向き直った。
もう半刻が過ぎた。
二本目の蝋燭が、半分になった。
桐庵は動かなかった。膝を崩しもしなかった。四十一年生きてきた中で、彼が最も得意とすることがこれだった。何もせずに、そこにいること。医学部では習わない。教えられて身につくものでもない。
夜半を過ぎた。
信長の手が、止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
やがて彼は、石を一つ拾い上げて、指で弄んだ。
「医者」
「はい」
「余が眠らぬのは、眠れぬからではない」
「はい」
「眠っておるあいだ、何も起きぬのが、耐えられぬのだ」
桐庵は、うなずいた。
「世は動いておる。毛利も、上杉も、本願寺も、動いておる。余が目を閉じておるあいだも動く」信長は石を置いた。「余だけが止まる。それが——」
彼はそこで言葉を切った。
適当な言葉を探して、見つからなかったという切り方だった。
「怖いですか」
「怖くはない」
「腹が立ちますか」
信長は答えなかった。
答えないという答えを、桐庵は受け取った。
彼は膝で少し進み、絵図の脇に置かれた書状の山を見た。開封済みのものと、未開封のものが混ざっている。未開封のほうが多い。
「これ、全部読むんですか」
「読む」
「今夜」
「今夜」
「明日でもよいものは」
「ない」
「一つもですか」
信長は山に手を伸ばし、上から三通目を取って、桐庵に投げた。
桐庵は開いた。
尾張の村で、川の堰が壊れたという報せだった。田が二町ばかり水を被った。人は死んでいない。
「これは、明日でもいいのでは」
「その二町を作った者には、明日ではない」
桐庵は、書状を膝に置いた。
しばらく黙っていた。
それから、丁寧に折り畳んで、信長の前に返した。
「上様」
「なんだ」
「一つ、伺ってもいいですか」
「申せ」
「その二町のことを、今夜のうちに知って、上様はどうなさるんです」
信長は、口を開いた。
開いて、閉じた。
何も言わなかった。
三本目の蝋燭に火を移したのは、桐庵だった。
彼はそれから明け方まで、部屋の隅に座っていた。信長は書状を読み続け、途中で二度、桐庵のほうを見た。二度とも、桐庵は同じ場所にいた。
白みはじめた頃、信長が横になった。
眠ったわけではない。横になっただけである。
しかし四半刻ほどして、息が深くなった。
桐庵は立ち上がり、音を立てずに部屋を出た。
廊下で、森が壁にもたれて座っていた。目を開けたまま眠っていた。桐庵は自分の羽織を脱いで、その膝にかけた。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇一
氏名 織田上総介信長
年齢 四十二
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主訴
家臣どもの仕事が遅い。
所見
連続四日、臥床せず。
「眠っているあいだ何も起きぬのが耐えられぬ」と発語。
未開封の書状、三十通以上。
払暁、入眠。四半刻。
診断
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処方
隣に、誰かがいること。
備考
眠らぬ者の傍に、眠らずにいる者がもう一人おれば、
それは不眠ではなく、夜番になる。
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