第六話 長篠の話はもう聞いた
信長は、翌日も来た。
来るなり、鶏の籠を覗き込んだ。それから台に座り、腕を組み、言った。
「余は、値切らなんだ」
「そうですか」
「行く暇がない」
「そうでしょうね」
桐庵は粥をよそいながら聞いていた。信長は椀を受け取り、匂いを嗅ぎ、少し食べた。天下人が地下蔵で麦粥を食べている。森は階段の上で、毎回そのたびに息を呑んでいる。
「医者」
「はい」
「長篠を知っておるか」
桐庵は匙を止めた。
来た、と思った。
この男は、三日に一度この話をする。正確には、話しはじめる。そして毎回、途中で別の話に逸れて、また戻ってくる。戻ってくるたびに、細部が少しずつ増えている。
「馬を止めた」
信長は椀を置いた。
「柵を三重に組んだ。誰も思いつかなんだ。武田の騎馬は日の本一よ。それを、柵と鉄砲で止めた。あれは——」
「その話、昨日も聞きました」
信長の口が、開いたまま止まった。
「……昨日」
「ええ」
「昨日、余は来ておらぬ」
「来ましたよ」
「来ておらぬ」
桐庵は、壁際の台を振り返った。
「燈さん。上様、昨日いらっしゃいましたよね」
燈は銭を数えていた。数えるのをやめずに答えた。
「知りません」
「数えてたでしょう」
「銭は覚えてます。人は覚えません」
信長が、燈を見た。
燈は銭を数え続けた。三百二十文、と小さく声に出した。
信長は桐庵に向き直った。
「余は来ておらぬ」
「では、一昨日でしょう」
「一昨日も来ておらぬ」
「そうでしたか」桐庵は粥を食べた。「では、もっと前ですね」
信長は立ち上がった。
蔵の中を二歩歩き、振り返り、戻ってきた。座らなかった。
「余の話が、つまらぬと申すか」
「面白いですよ」
「ならば聞け」
「聞いています。三度目ですが」
「三度目がいかん」
「いけなくはありません」桐庵は椀を置いた。「ただ、三度目を語る人は、たいてい四度目も語ります。五度目も。十度目も」
「それがどうした」
「そういう話は、聞いてほしいのではなく、もう一度そこにいたいから語るんです」
信長の眉が、動いた。
「戻りたいんですか」
答えはなかった。
信長は蔵の梁を見上げた。低い梁である。彼の背では、立つと頭が触れそうになる。
しばらくして、彼は言った。
「あの日は、面白かった」
「今は」
「つまらぬ」
そう言って、彼は階段へ向かった。
途中で止まり、振り返らずに付け足した。
「余は、明日は来ぬ」
「どうぞ」
十三段を上る足音が、いつもより重かった。
森が慌てて後を追い、途中で振り返って、桐庵を睨んだ。それから何も言わずに上っていった。
蔵が静かになった。
燈が、銭を袖に落とした。
「怒らせましたね」
「ええ」
「明日は来ないと言ってましたよ」
「来ますよ」
「なぜ」
「怒って帰った人は、たいてい戻ってきます」桐庵は椀を洗いはじめた。「戻ってこないのは、怒らなかった人です」
燈は、それについてしばらく考えている顔をした。
それから言った。
「昨日、あの人、来てました」
「でしょう」
「思い出しました」
「よかった」
「……なぜ、わたしに訊いたんです」
桐庵は椀を伏せた。
「上様が、自分の記憶を疑うところが見たかったので」
「性格が悪い」
「医者ですので」
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診 療 録
患者番号 〇〇〇一
氏名 織田上総介信長
年齢 四十二
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主訴
家臣どもの仕事が遅い。
所見
同じ話を三度。細部が毎回増える。
「今はつまらぬ」と発語。
怒って退室。
診断
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処方
明日、来ること。
備考
怒って帰った患者は、必ず戻る。
戻らぬ者のほうが、重い。
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