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偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


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第五話 医者のほうが速い

 翌朝、桐庵は戸を押した。


 外が、川だった。


 正確には、川のすぐ脇である。蔵の戸口から三尺のところで水が流れていた。昨日まで、そこには畑があり、崩れた土塀があり、稲葉山が見えていた。


 山はあった。ただし、方角が違った。


 桐庵はしばらく戸口に立って、流れを見ていた。それから振り返って、蔵の中へ声をかけた。


「燈さん」


「なんです」


「外が、川です」


「そうですか」


「昨日は畑でした」


「そうですか」


 燈は台の上で、昨日もらった銭を数えていた。数え終わると袖に落とし、また最初から数えはじめた。


 桐庵は戸口に腰を下ろした。


「驚かないんですね」


「驚いても、戻りません」


「それはそうだ」


 彼は膝に肘をついて、水面を眺めた。鴨が三羽、下流へ向かって流されるように泳いでいった。


「ここは、どこでしょう」


「知りません」


「いつでしょう」


「知りません」


「困りましたね」


「困っていない顔で言わないでください」


 桐庵は笑った。


 それから立ち上がり、蔵の中へ戻って、看板の板を抱えて出てきた。川べりの、一番目立つところに立てかけた。


  よろづ こころの療治


 半刻もしないうちに、患者が来た。


 腰の曲がった老女だった。孫が言うことを聞かぬという主訴で、話は四半刻続き、最後には孫ではなく亡くなった夫の話になった。桐庵は最後まで聞いた。老女は帰りがけに芋を三つ置いていった。燈はそれを見て何も言わなかった。芋は銭にならないからである。


 昼過ぎに、また戸を押した。


 外は、畑だった。


 稲葉山が、元の方角に見えた。


 桐庵は看板を抱えたまま、しばらくその山を眺めていた。


 背後で燈が言った。


「戻りましたね」


「戻りますか」


「戻ることも、あります」


「戻らないことも」


「あります」


 桐庵は看板を土塀に立てかけた。


 そして、腕まくりをした。


「では、急がないといけませんね」


 その日から、桐庵は速くなった。


 異常に速くなった。


 昼過ぎに信長が来たとき、彼は既に蔵にいなかった。森が階段を降りてきて、誰もいない蔵を見て、上げた声だけが残った。


 桐庵は城下にいた。


 石垣の普請場である。彼は石を運ぶ人足の列を四半刻眺め、それから地面に枝で図を描き、近くにいた頭を呼んで、こう言った。


「この並びだと、三人が待ってます」


「待っておりません」


「待ってますよ。あそこと、あそこと、あの人」桐庵は指さした。「石が来るのを待っている。石が来ないのは、担ぐ者が坂を上り下りしているからです。上る道と下る道を分けてください」


「分ける場所が」


「そこの畦を踏んでいいことにすれば、分かれます」


「畦は」


「後で謝りましょう」


 頭は、ぽかんとしていた。


 それから、やってみた。


 やってみたら、速くなった。


 次に桐庵は、鉄砲玉の帳面を見に行った。見せてもらえるはずがないので、見せてもらえる場所——玉を作っている鋳場——へ行った。半刻話を聞いて、数が合わない理由が分かった。鋳損じの玉を数に入れる者と入れない者がいた。それだけである。


「数え方を、一つにしてください」


「どちらに」


「どちらでもいいです。一つなら」


 夕方、桐庵が蔵へ戻ると、信長がいた。


 台に座っていた。腕を組み、片足を貧乏揺すりさせ、燈を睨んでいた。燈は銭を数えていた。


「遅い」


 桐庵が階段を降りきる前に、信長が言った。


「申し訳ありません。出ておりました」


「どこへ」


「普請場と、鋳場です」


 信長の眉が動いた。


「なぜ行った」


「石垣が遅いと伺いましたので」


「誰の許しを得た」


「得ていません」


「……」


「上る道と下る道を分けました。玉の数え方も一つにしました。あと、畦を踏みましたので、後で謝りに行ってください」


 信長は、立ち上がった。


 桐庵の前まで来た。背が高い。見下ろされる形になった。


「余の領内で」


「はい」


「余に断りなく」


「はい」


「勝手に、決めたか」


「決めました」桐庵は懐から紙を出した。「あと、鶏を買いました。十八文でした」


 信長の顔が、固まった。


「……十八」


「値切りました」


「余は二十文と申した」


「ええ」


「余より安いではないか」


「そうですね」


 信長は紙を奪い取り、書かれた数字を睨んだ。


 それから、桐庵を見た。


 桐庵は、すでに次のことをしていた。台の上の器を片づけ、筵を敷き直し、甕に水を足し、明日の粥のために麦を量っていた。喋りながら手が止まらない。信長が何か言いかけると、その前に「それは済ませました」と答えた。


「待て」


 信長が言った。


 桐庵は手を止めた。


 振り返った。


 信長は、自分が何を言ったのかに、少し遅れて気づいたようだった。


「……今、なんと」


「待て、と」


「言うたか」


「言いました」


 蔵の中が、静かになった。


 信長は、ゆっくりと台に戻って座った。


 座って、両手を膝に置いた。


 それからしばらく、何も言わなかった。


 桐庵は、麦の器を置いて、床几を引いて、信長の正面に座った。膝が触れそうな距離である。今度は、信長は身を引かなかった。


「上様」


「なんだ」


「今、どんな心持ちでしたか」


 信長は答えなかった。


 桐庵は待った。


 待つのは、彼の仕事の大半である。


「……腹が立った」


「ええ」


「勝手をされた」


「はい」


「だが」


 信長は、そこで言葉を探した。


 探しているあいだ、指が膝の上で二度、動いた。


「速い者が、前におった」


「はい」


「余の前を、人が歩いておった」


「はい」


 信長は顔を上げた。


「……久しいな」


 桐庵は、うなずいた。


 うなずいて、何も言わなかった。


 言わずに、立ち上がって、甕から水を汲んだ。柄杓を差し出した。


 今度は、信長はそれを受け取った。


 受け取って、飲んだ。


 半分ほど飲んで、息をついた。


「医者」


「はい」


「鶏は、どこにおる」


「表の籠に」


「見せよ」


 二人は十三段を上った。


 夏の夕暮れだった。籠の中で、赤い鶏が一羽、片目で人を見上げていた。信長はしゃがみ込み、しばらくその鶏を眺めていた。


「十八文か」


「十八文です」


「……次は、余が値切る」


「どうぞ」


 信長は立ち上がり、袴の埃を払った。


 帰り際、彼は一度だけ振り返って、こう言った。


「明日も、走るか」


「走りますよ」


「余も走る」


「ご自由に」


 信長は笑って、歩いていった。


 桐庵は籠の横にしゃがみ、鶏を見ながら、しばらくそこにいた。


 背後で、燈が言った。


「あの人、明日は来ませんよ」


「なぜです」


「勝ちに行くからです。ああいう人は、勝てるとなったら、こちらを見ません」


 桐庵は鶏の羽を撫でた。


「そうですね」


「悲しくないんですか」


「なぜです」


「先生、さっき、あの人に前を歩かれたと言われて」


 燈は、言いかけてやめた。


 自分が何を言おうとしたのか、分からなくなったという顔をした。


 桐庵は振り返って、彼女を見た。


 それから、いつもの調子で言った。


「灸、しましょうか」


「結構です」


```

──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇〇一


 氏名 織田上総介信長

 年齢 四十二

──────────────────

 主訴

  家臣どもの仕事が遅い。


 所見

  「待て」と発語。本人、自覚せず。

  水を飲んだ。初診以来、初めて。

  鶏を見て、しゃがんだ。


 診断

    ──


 処方

  明日も、先を歩くこと。


 備考

  この人は、追われたことしかない。

  追ったことが、ない。

──────────────────


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