第四話 部下が遅い
三日空けて、信長はまた来た。
今度は供がいた。森が一人、階段の上に立っている。降りてこない。降りてくるなと命じられたのだと、桐庵は察した。
「余は忙しい」
台に腰を下ろすなり、信長はそう言った。
「お忙しいでしょうね」
「忙しいのは、余のせいではない」
「そうでしょうね」
「家臣どもが遅いからだ」
桐庵はうなずいて、筆を取った。
信長が喋りはじめた。
最初は、普請の話だった。石垣を積ませているのだが、進みが遅い。図を描いて渡したのに、その通りにならない。なぜならないのかと問えば、石が足りぬと言う。足りぬなら取りに行けばよい。取りに行くには人が要ると言う。人を出せと言えば、田植えの時期だと言う。
「田植えなど、誰がいつ決めた」
「お天道様かと」
「余は天道より忙しい」
信長は次に、鉄砲の話をした。玉の数が合わぬ。帳面が合わぬ。合わぬ理由を問うと、誰も答えられぬ。答えられぬなら調べよと言うと、三日かかると言う。三日あれば戦が終わる。
それから船の話をした。堺の話をした。京の公家の話をした。茶の話をした。茶の話をしているあいだに勝家の話になり、勝家の話をしているあいだに越前の話になり、越前の話からまた石垣に戻った。
半刻が経った。
信長は喋り続けていた。
途中で一度も水を飲まなかった。息継ぎの位置がおかしい。言葉が追いつかないので、たまに接続を飛ばす。飛ばしても本人は気にしない。頭の中ではつながっているのだろう、と桐庵は思った。
一刻が経った。
信長は、ふと言葉を切った。
「……医者」
「はい」
「何を書いておる」
桐庵は筆を止めた。
紙には、こう書いてあった。
鶏について
「鶏です」
「鶏だと」
「ええ。町で見かけたんですが、あれは飼うと面白いと思いまして」桐庵は身を乗り出した。「うちの蔵は昼でも暗いので、時が分からないんです。鶏がいれば鳴きます。便利でしょう」
信長は、口を開けたまま桐庵を見ていた。
「餌の心配はあるんですが、麦の屑が出ますし、虫も食べますし」
「余の話を」
「それに卵が採れます。卵は滋養があります。上様も召し上がったほうがいい」
「余の話を聞いておったのか」
「聞いていましたよ」
「では言うてみよ」
「石垣が遅い。玉の数が合わぬ。船が要る。公家が煩い。茶碗が高い。勝家が真面目すぎる。越前が遠い」桐庵は指を折って数えた。「七つですね。一刻で七つは、少ないほうです」
信長の顔が、赤くなった。
立ち上がった。
「少ないだと」
「多い少ないの話ではなく」
「余の一刻を、鶏と比べるか」
「比べてはいません。並べただけです」
信長は台を蹴った。
板が一枚外れて、床に落ちた。階段の上で森が息を呑む音がした。
桐庵は動かなかった。動かずに、落ちた板を目で追い、それから信長を見上げた。
「怒鳴ると、喉が渇きます」
柄杓を差し出した。
信長は、それを叩き落とした。
水が土間に跳ねて、桐庵の膝を濡らした。
蔵の中が、静かになった。
壁際の台の上で、燈が膝を抱えたまま、まったく無表情にその様子を見ていた。
信長が、燈のほうを向いた。
「女」
「はい」
「片づけよ」
「嫌です」
森が、階段の途中で足を滑らせた。
信長は一歩、燈のほうへ踏み出した。
「余を誰だと思うておる」
燈は、少し首を傾げた。
そして言った。
「知りません」
信長の動きが、止まった。
止まったまま、しばらく燈を見ていた。
燈は見返した。目を逸らさなかった。怯えてもいなかった。挑んでもいなかった。ただ、本当に知らない人間の顔をしていた。
やがて信長は、鼻から息を吐いた。
それから、屈んで、自分で柄杓を拾った。
拾って、甕に戻した。
誰も何も言わなかった。
信長は、外れた板を元の位置に戻し、上から掌で押さえた。板は斜めのまま収まった。彼はそれを二度押し、うまくいかないと見ると、諦めて手を離した。
そして、座った。
「……医者」
「はい」
「鶏は、どこで買う」
「川向こうの、笠を売っている店の裏だそうです」
「高いか」
「三十文と聞きました」
「高い」
「そうですか」
「余なら二十文で買う」
「買えたら教えてください」
信長は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
笑って、また立ち上がった。座っていられないのである。彼は蔵の中を二歩歩き、振り返り、戻ってきた。
「余は、明日また来る」
「どうぞ」
「明日は、余の話を聞け」
「聞きますよ」
「本当か」
「本当です」桐庵は紙を裏返した。「今日は、聞くより先に見ておきたいことがあったので」
「何を見た」
桐庵は答えなかった。
答えるかわりに、こう言った。
「上様。一つ伺ってもいいですか」
「申せ」
「最後に、誰かの話を最後まで聞いたのは、いつです」
信長は、階段に足をかけたところで止まった。
止まって、振り返らなかった。
そのまま十三段を上って、出ていった。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇一
氏名 織田上総介信長
年齢 四十二
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主訴
家臣どもの仕事が遅い。
所見
一刻、休みなく話す。水を飲まず。
話題が七つ。すべて未解決。
着座を保てず、立って歩き、また座る。
怒りは長く続かぬ。
柄杓を自分で拾った。
診断
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処方
鶏を一羽(本人買い付け予定)
備考
話を聞かぬのではない。
聞いてもらった経験が、おそらく、ない。
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