第三話 患者番号〇〇〇一
「行かぬ、と申したのか」
若い武士――名を森と名乗った――は、翌朝ふたたび蔵の前に立っていた。顔色が悪い。一晩眠っていないのだと、桐庵は見て取った。
「ええ」
「なぜ」
「診療所を動かせませんので」
「動かさずともよい。貴殿が動けばよい」
「動いたら、それは診療所ではありません」桐庵は戸口に腰を下ろし、朝の粥を掻き込んだ。「ここに来てくださるぶんには、いつでも」
森は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、絞り出すように言った。
「……首が飛ぶぞ」
「どなたの」
「わしのだ」
桐庵は匙を止めた。
それから、椀を置いて、若い武士の顔をあらためて見た。目の下が黒い。唇が乾いている。指先が、袴の脇をしきりに擦っている。
「昨夜、眠っておられませんね」
「当たり前だ」
「今朝、何か召し上がりましたか」
「そのような場合では」
桐庵は立ち上がり、蔵の中へ入って、椀にもう一杯粥をよそって戻ってきた。
「食べてください」
「話を聞いておられぬのか」
「聞いています。首が飛ぶ、と」桐庵は椀を押しつけた。「飛ぶ前に食べたほうがいいですよ。腹が減っていると、どうでもいいことで死にたくなりますから」
森は椀を受け取り、それをしばらく見つめ、それから食べた。
食べてしまうと、彼は少しだけ、まともな顔になった。
その日の午後、蔵の前で足音がした。
供はいなかった。
一人である。
階段の上で影が差し、十三段を降りてくる音がした。ゆっくりではなかった。降り慣れていない段を、それでも急いで降りる音だった。
桐庵は、筵の上で昼寝をしていた。
「医者はどこだ」
声で目が覚めた。桐庵は薄目を開け、天井の梁を見て、それから声の主のほうへ寝返りを打った。
背の高い男が立っていた。
痩せている。肩幅は広いが、肉がついていない。小袖の襟元から覗く首が、驚くほど細かった。顔は日に焼け、頬がこけ、目だけが異様に大きい。歳は四十を少し超えたくらいに見えた。
その目が、桐庵を見下ろしていた。
桐庵は、上体を起こした。髪に藁がついていたので、それを払った。
男を見上げ、少し考えて、言った。
「肩、凝ってません?」
蔵の中が、静かになった。
男の背後で、階段を降りてきた森が、声にならない音を立てた。
男は動かなかった。
それから、ゆっくりと、右手を自分の左肩に置いた。
置いて、しばらく黙っていた。
「……凝っておる」
「でしょうね」
「なぜ分かる」
「首の据わり方です」桐庵は立ち上がり、板を積んだ台を指した。「そこに座ってください。背もたれはありません」
男は座った。
桐庵は、その背後に回った。
薄い。手を触れる前から、肩の筋が張り詰めているのが見て取れた。首から肩にかけての線が、まっすぐな板のようになっている。人間の首は、本来こうはならない。
彼は両手の親指を、肩の付け根に当てた。
男の体が、びくりと跳ねた。
「痛いですか」
「痛い」
「これでもですか」
桐庵は力を抜いた。触れているだけである。それでも男は息を詰めた。
「触っているだけです」
「触られるのが、嫌いなのだ」
「そうでしょうね」
桐庵は手を離した。台の前に回り、床几を引いて、男の正面に座った。膝が触れそうな距離である。
男が、わずかに身を引いた。
「近い」
「診察ですので」
「医者というものは、皆こうか」
「私だけだと思います」
男は、その答えを聞いて、初めて表情を動かした。
笑ったわけではない。口の端が、ほんの少し上がっただけである。
「名は」
「桐庵と申します」
「どこの生まれだ」
「かなり遠くです」
「どのくらい遠い」
「歩いては行けません」
男は片眉を上げた。
「南蛮か」
「そう思っていただいて構いません」
「顔が違う」
「よく言われます」
男は、しばらく桐庵の顔を眺めていた。
値踏みされている、と桐庵は思った。それも、かなり速い値踏みだった。この男は人を見るのが速い。速くて、たいてい当たるのだろう。だから誰も彼を欺けないし、だから彼は誰のことも待たない。
「馬に灸を据えたそうだな」
「据えようとしただけです」
「なぜ据えようと思うた」
「怖がっていたので」
「馬がか」
「馬がです」
男は、そこでもう一度、口の端を上げた。
背後で森が身を固くしているのが、気配で分かった。桐庵は気にしなかった。彼の仕事は目の前の患者を見ることであって、後ろで縮こまっている若者を安心させることではない。
「医者よ」
「はい」
「余は、困っておる」
「そうでしょうね」
「まだ何も申しておらぬ」
「そのお体で困っていないなら、そちらのほうが重い病です」
男は黙った。
それから、ふいに立ち上がった。
台がわずかに鳴った。男は蔵の中を二歩歩き、振り返り、また二歩戻った。落ち着きがない。座っていられないのである。
「余は、待つのが嫌いだ」
「存じています」
「なぜ知っておる」
「今、一分と座っていられませんでしたので」
男は自分の足元を見た。
それから、ふん、と鼻を鳴らして、また座った。
「では聞け」
「どうぞ」
男は、膝の上で拳を握った。
「家臣どもの、仕事が遅い」
桐庵は、うなずいた。
そして、紙束と筆を引き寄せた。
台の上の男は、しばらくその手元を見ていた。
「何を書いておる」
「診療録です」
「それは何だ」
「あなたのことを書いておく紙です」
「読ませよ」
「駄目です」
蔵の空気が、また止まった。
背後の森が、今度ははっきりと声を出した。「無礼な」と言いかけて、途中で喉に詰まらせた。
男は、身を乗り出していた。
「余に、読ませぬと申すか」
「ええ」
「余は」
「存じています」桐庵は筆を置き、顔を上げた。「それでも、駄目です。ここに書いたことを他人が読めるなら、次に来た人は、本当のことを言いません」
男の目が、細くなった。
その目には、怒りとは違うものが浮かんでいた。桐庵は、それが何なのかを知っていた。診察室で、ときどき見る顔である。
珍しいものを見た、という顔だった。
「……面白い」
男はそう言って、身を引いた。
「余は織田上総介信長という」
「はい」
「はい、だと」
「はい」
信長は、笑った。
今度は、声を立てて笑った。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇一
氏名 織田上総介信長
年齢 四十二
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主訴
家臣どもの仕事が遅い。
所見
著しい痩せ。頸肩部の筋緊張は板の如し。
触診に対し過敏。
着座一分を保てず。
供を連れず来院。
自らの不調について、一言も述べず。
診断
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処方
次回、必ず来ること。
備考
「家臣が遅い」と言う者は、
たいてい、自分が速すぎる。
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