第二話 灸、しましょうか
三日が過ぎた。
患者は来なかった。犬は治って、どこかへ行った。飼い主は見つからなかったが、燈は近隣の三軒から「犬の件で世話になった」という名目で味噌と麦を受け取ってきた。誰の犬でもなかったはずである。
「あれは、詐欺というのでは」
「困っている人を助けたのだから、礼をもらって何が悪いんです」
「助けたのは犬です」
「犬も困っていました」
桐生修司は反論をやめた。麦は旨かった。
四日目の朝、彼は町へ出ることにした。蔵に座っていても患者は来ない。歩けば何かに当たる。医者という職業は、昔からそういうものである。
燈がついてきた。麦を売るのだという。三軒からもらってきた麦を、である。
町は、思っていたよりずっと賑やかだった。川に沿って道が走り、両側に板葺きの家が並び、荷を担いだ者、天秤を担いだ者、桶を頭に載せた女が行き交っていた。声が大きい。全員が値段の話をしている。修司はしばらく、道の端に立ってそれを眺めていた。
人が動いている。生きて、働いて、腹を立てて、笑っている。
悪くない、と彼は思った。
悲鳴が上がったのは、そのすぐ後だった。
道の先で、馬が跳ねていた。荷を積んだ駄馬である。何に驚いたのかは分からない。背の荷が崩れて片側に垂れ下がり、それが脇腹を打つたびに、馬はさらに跳ねた。馬子が手綱に引きずられて転がり、人々が左右の家の軒下へ逃げた。
馬は前脚を高く上げ、白目を剥いていた。
修司は道の真ん中に立っていた。
逃げなかったのは、勇気があったからではない。ただ、目の前で暴れているものが、ひどく怯えているように見えたからである。
彼は懐に手を入れた。蔵で見つけた艾の塊と、火打ちがあった。医者の道具として拾っておいたものである。
火をつけた。
艾は、すぐに燃えず、白い煙を細く上げた。独特の、苦くて甘い匂いが立った。
修司は、その煙を手で扇いだ。
馬が、鼻を鳴らした。
跳ねるのをやめたわけではない。しかし前脚が地に着いた。耳が煙のほうを向いた。修司はもう一度扇ぎ、二歩近づき、静かに言った。
「灸、しましょうか」
馬は答えなかった。当たり前である。
けれど馬は、それきり動かなかった。修司が手を伸ばして首筋に触れても、身をよじらなかった。修司は垂れ下がった荷の縄を解き、地面に落とした。脇腹が軽くなると、馬は長い息を吐いた。
道の両側から、人が出てきた。
誰かが「馬に灸を据える気だったのか」と言い、別の誰かが笑い、笑いが広がって、しまいには馬子までが泣きながら笑った。
「お前さま、医者か」
汗みずくの馬子が、修司の袖を掴んで言った。
「ええ」
「名は」
修司は口を開いて、詰まった。
桐生修司です、と言ったところで、誰にも通じない。彼はこの三日で、それを学んでいた。
視界の端に、川向こうの桐の木が見えた。花の季節はとうに過ぎていたが、葉が大きく広がっていた。
「……桐庵と申します」
「とうあん先生か」
「ええ」
言ってしまってから、桐庵は少し可笑しくなった。四十一年使ってきた名を、桐の木を見ただけで捨てたのである。
道の反対側で、燈が崩れた荷を拾い集めていた。
手際がよかった。米袋を立て、散った豆を笠に受け、紐の切れた俵を膝で押さえて縛り直していた。桐庵が近づくと、彼女は顔も上げずに、荷主らしき男に向かって言った。
「預かり賃を」
「は」
「拾いました。まとめました。縛りました。三つ仕事をしました」
「いや、しかし」
「では、置いていきます」
男は慌てて銭を出した。燈はそれを受け取り、数え、袖に落とした。
桐庵は何も言わなかった。
その夜である。
蔵の隅で、桐庵は柱に触れた。
昼間の煤で汚れた指を拭おうとして、柱の表面がざらついていることに気づいたのである。灯りを近づけた。
字が彫ってあった。
一つではない。上から下まで、びっしりと彫られていた。縦に、横に、斜めに。深いものも浅いものもあった。古いものは木の色に馴染み、新しいものは白く木肌を見せていた。
名前だった。
半分以上に、線が引いてあった。上から強く、太く、消すように引かれていた。
桐庵は灯りを上げ、下から順に読んでいった。読めない字が多かった。読めたものもあった。
柱の中ほど、目の高さのあたりに、二文字あった。
燈
線は引かれていなかった。
桐庵は指でその字をなぞった。彫りは深く、縁が丸くなっていた。何度も触られた跡だった。
振り返ると、燈が台の上に座って、こちらを見ていた。
二人はしばらく、そのまま黙っていた。
先に口を開いたのは燈だった。
「訊かないんですか」
「何をです」
「わたしのこと」
桐庵は灯りを下ろし、柱から手を離した。
「訊いてほしいんですか」
燈は答えなかった。
「じゃあ、訊かないでおきます」
桐庵は筵を敷いて横になった。しばらくして、燈が台の上で身じろぎする音がした。それから、ひどく小さな声で何かを言った。
聞き取れなかった。
桐庵は聞き返さなかった。
戸を叩く音がしたのは、夜が更けてからだった。
激しい叩き方だった。桐庵が戸を開けると、松明を掲げた若い武士が立っていた。息が上がっている。走ってきたのだと分かった。
武士は蔵の中を一瞥し、看板の字を読み、それから桐庵の顔を見た。
「馬に灸を据える医者とは、貴殿か」
「据えようとしただけです」
「上様が、お呼びだ」
桐庵は首を傾げた。
「どちらの」
武士の顔が、こわばった。
「……上様と申せば、一人しかおられぬ」
背後の台の上で、燈が言った。
「行けば、銭になりますよ」
桐庵は振り返らずに答えた。
「いや、行きません」
武士の手から、松明が落ちかけた。
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診 療 録
患者 馬(駄、栗毛、雌)
年齢 推定六歳
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主訴
なし(本人申告不能)
所見
荷の偏りにより左脇腹を打ち続けていた。
痛みに対する反応であり、狂ったわけではない。
診断
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処方
荷を下ろすこと。
備考
暴れている者を見たら、
まず何が当たっているかを探す。
人でも同じである。
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