第一話 地下の医者
土の匂いで目が覚めた。
桐生修司は、まず自分が死んでいないことを確かめた。指は動く。膝も曲がる。背中の下にあるのは当直室の簡易寝台ではなく、藁と、その下の固い土だった。頭上に低い梁が渡してあり、そこから吊された縄の先で、何かの根が乾いていた。
起き上がって頭をぶつけた。
「痛い」
声は出た。声が出るのだから、生きている。修司は梁を撫で、藁を一掴み取って匂いを嗅ぎ、それから壁際の甕を覗き込んだ。底に水が溜まっている。指を入れた。冷たい。
階段があった。十三段。数えながら上ると、板戸の隙間から光が差していた。押すと、蝶番が抜けかけていて、戸のほうが先に倒れた。
夏の光が真上から落ちてきた。
目が慣れるまで、しばらくかかった。慣れてから見えたものは、崩れかけた土塀と、その向こうに続く畑と、さらに向こうの山だった。電線はなかった。舗装もない。畑の中で、菅笠をかぶった男がこちらを見ていた。男は鍬を持ったまま、口を開けていた。
修司は手を振った。
男は鍬を落として逃げた。
「……愛想のない土地だな」
修司は土塀にもたれ、腹のあたりを掻いた。白衣は着ていない。当直明けに引っかけた薄手のシャツと、洗いざらしのチノパンだけだった。腕時計は止まっている。携帯は、ポケットにはあったが、画面に何も出なかった。
ここがどこで、いつなのかを、彼は三十秒ほど考えた。
それから、日陰を探した。
日は長かった。修司は塀の影に座り、通る者を数えた。荷を担いだ男が三人、馬に乗った男が二人。馬の男は腰に刀を差していた。一人は具足の胴だけをつけていた。誰も修司を見なかったし、見た者は足を速めた。
三人目に声をかけたとき、相手は「ここは稲葉山の下じゃ」と答えて、それ以上は何も言わずに行ってしまった。
稲葉山、と修司は口の中で繰り返した。
高校の授業で聞いたことがある気がした。それ以上のことは思い出せなかった。
日が傾いた。腹が減っていた。彼は蔵へ戻ることにした。他に行くところがなかったからである。
十三段を降りた。
暗がりに、女が座っていた。
修司は足を止めた。降りる前は誰もいなかった。戸は倒れたままだったから、誰かが入ることはできる。できるが、この女は入ってきた様子がなかった。壁際の、一番奥の、床几のような台の上に、膝を抱えて座っていた。ずっとそこにいたという座り方だった。
若い。二十代の半ばに見える。髪を後ろで無造作に束ね、色の褪せた小袖を着ていた。顔は整っているのに、表情がまったくなかった。
修司は階段の途中で立ったまま、言った。
「こんばんは」
女は修司を見た。見ただけだった。
「私は桐生といいます。医者です」
女は何も言わない。
「お名前は」
「燈」
思いのほか、はっきりした声だった。
「あかり。どういう字を書くんですか」
「灯りの字」
「いい名前だ」修司は残りの段を降りた。「いつからここに」
燈は少し黙ってから、言った。
「知りません」
修司は「そうですか」と言った。
そして、藁を片づけはじめた。
燈が、初めて表情らしきものを見せた。眉がわずかに動いた。それだけである。
「訊かないんですか」
「何をです」
「いつから、と訊いたのは、そちらでしょう」
「訊きましたよ。知らないと答えられました」修司は腕一杯の藁を抱えて階段を上り、外へ放り、また降りてきた。「知らないものを、二度訊いても出てきません。私の仕事は、出てこないものを無理に出させることではないので」
「では、何の仕事なんです」
「精神科医です」
燈は、その言葉を知らないという顔をした。
「心を診る医者です」
「心は診えません」
「そうなんですよ」修司は甕の水を柄杓で汲み、床にぶちまけて土埃を沈めた。「困ったものです」
それから彼は、日が落ちるまで蔵を片づけた。燈は一度も手伝わなかったし、出ていきもしなかった。台の上から、修司が働くのをただ見ていた。
板と木箱を積んで台を作った。棚の高さを合わせ、割れていない器を拾い集めて並べた。隅に転がっていた筵を洗って干した。
最後に、倒れた板戸を洗って、炭の欠片で字を書いた。
よろづ こころの療治
戸を立てかけると、なかなか様になった。
「これは、何ですか」
「看板です」
「治療代は」
「取りません」
燈が、台の上で身を起こした。この日、彼女が初めてはっきり動いた瞬間だった。
「取らない」
「ええ」
「なぜ」
「持っていない人が来るからです」
燈は、心底わけが分からないという顔をした。それから、また膝を抱えた。
その夜、最初の患者が来た。
戸の外で、何かが低く唸っていた。修司が覗くと、痩せた黄色い犬が、腹を地面につけて震えていた。糞にまみれていた。逃げもしない。逃げる力がないのである。
修司は犬を抱えて蔵へ入れ、湯を沸かし、体を拭き、水を少しずつ飲ませた。犬は飲んだ。飲んで、また出した。修司は黙って拭いた。夜半まで、それを繰り返した。
明け方近く、犬は震えを止め、修司の膝の横で眠った。
燈が、台の上から言った。
「代金は」
「犬ですよ」
「犬でも、湯を使いました。塩も使いました。筵が一枚だめになりました」
「請求先がありません」
「首に縄の跡があります。飼い主がいます」
修司は犬の首を見た。確かに、毛の薄くなった輪があった。
「探しに行くんですか」
「当然です」
燈は立ち上がり、夜が明けきらないうちに出ていった。修司は犬の腹に手を当てて、その呼吸を数えながら、彼女が階段を上る足音を聞いていた。
ひどく静かな足音だった。長いこと、人に気づかれないように歩いてきた者の足音だと、修司は思った。
思っただけで、何も言わなかった。
夜が明けた。
修司は棚から埃をかぶった紙束を見つけ、墨を磨り、一枚目に線を引いた。
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診 療 録
患者 犬(黄、痩、雄)
年齢 推定三歳
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主訴
鳴けぬ。動けぬ。
所見
激しい下痢。脱水。
腐肉を食したものと思われる。
人を恐れぬ。飼われていた形跡あり。
診断
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処方
湯冷まし、少量ずつ。
塩ひとつまみ。
粥、明日より。
備考
番号は付けぬ。
この者は、自分の足で来たわけではない。
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筆を置いて、修司は眠っている犬を見た。
それから、まだ誰も知らないこの診療所の、一番目の患者の番号を、空けておくことにした。
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