第二十五話 愚痴を言えない男
「往診に参ります」
「呼ばれてませんよ」
「呼ばれてから行くのは、怠慢です」
桐庵は薬籠を背負った。
燈が、板を抱えて後ろをついてきた。
「なぜ来るんです」
「代金を取りそこねるので」
坂本の屋敷は、思っていたより質素だった。
城は大きい。湖に張り出した石垣は立派で、船着きも整っている。しかし、主の住む屋敷のほうは、飾りがほとんどなかった。庭に石が三つ置いてあるだけで、あとは何もない。
家臣が出迎えた。
「殿は、まだ城におられます」
「では、待たせていただきます」
通されたのは、板間だった。
湯と、干した柿が出た。
桐庵は柿を食べながら、家臣に訊いた。
「日向守殿は、どういう方です」
その家臣は、若かった。二十代の半ばに見えた。名を青木といった。
「立派な方にございます」
「どのように」
「まず、決して怒られませぬ」
「一度も」
「一度も」
青木は、誇らしげに言った。
「それがしが、三年前に大きな粗相をいたしました。城の普請の帳面を、丸ごと水に落としたのでございます」
「それは大変だ」
「殿は、一言も叱られませんでした。『書き直せばよい』とだけ」
「書き直したんですか」
「三日、かかりました」
「日向守殿は」
「殿も、三日、一緒に書いておられました」
桐庵は、柿を置いた。
もう一人、年配の家臣が入ってきた。この者も同じことを言った。殿は怒らぬ。誰にでも優しい。夜も遅くまで働かれる。
三人目も、同じだった。
四人目も、同じだった。
桐庵は、次第に落ち着かなくなった。
三人が同じことを言うのは、その人の性質である。
四人が同じことを言うのは、その家の空気である。
「日向守殿は、愚痴を言われますか」
四人目の家臣は、首を傾げた。
「愚痴、でございますか」
「不満です。仕事が多いとか、疲れたとか」
家臣は、しばらく考えた。
考えて、言った。
「……ございませぬな」
「一度も」
「一度も」
「では、家臣の方々は」
「われらは、申します」
「日向守殿の前で」
男は、慌てて手を振った。
「めっそうもない」
夕刻になって、奥から女が出てきた。
光秀の妻だった。
小柄で、色が白く、髪に白いものが混じりはじめていた。落ち着いた挨拶をして、桐庵の正面に座った。
桐庵は床几を持ってきていなかったので、板間にそのまま向かい合った。
「最近の日向守殿は、いかがですか」
女は、すぐには答えなかった。
膝の上で手を重ねて、少し困った顔をした。
「……昔より、笑わなくなりました」
「笑わない」
「いえ」
彼女は、言い直した。
「笑うのです。よく笑います。ただ——」
言葉を探していた。
桐庵は待った。
「顔だけで笑うようになりました」
湖のほうで、水鳥が鳴いた。
「ご家庭では、愚痴を言われますか」
女は、首を振った。
「一度も、聞いたことがございませぬ」
「全く」
「全く」
桐庵は、膝の上で指を組んだ。
「奥方様」
「はい」
「それは、ご心配ではありませんか」
女は、微笑んだ。
光秀と同じ笑い方だった。
「あの人は、弱音を見せませぬ」
そして、少し黙ってから、こう言った。
「見せられないのです」
桐庵は、顔を上げた。
女は、庭の石を見ていた。
「嫁いで三十年になります。あの人は、美濃を出るとき、何もかも失くしました。家も、名も、頼る者も。越前で長く浪々いたしました」
「はい」
「あの頃、あの人は一度だけ、泣きました」
「一度」
「一度きりです」
彼女は、庭から目を離さなかった。
「わたくしの前でも、それきりでございます」
風が通って、庭の砂が薄く動いた。
「あの人は、あのとき決めたのだと思います」
「何をです」
「二度と、人前で崩れぬと」
桐庵は、しばらく何も言えなかった。
やがて、訊いた。
「奥方様は、どう思われます」
女は、初めて桐庵のほうを見た。
そして、小さく言った。
「……崩れてくれれば、よいのに」
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診 療 録
患者番号 〇〇一三
氏名 明智十兵衛光秀
年齢 四十九
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主訴
胃が痛む。眠りが浅い。
所見
往診。本人不在のため、周囲より聴取。
家臣四名、全員が「決して怒らぬ」と評す。
家中に、本人へ不満を述べる者なし。
妻の証言——三十年で、落涙一度。
「顔だけで笑うようになった」
診断
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処方
——
備考
愚痴を言わぬのではない。
言えぬのである。
妻は、それを知っていた。
本人だけが、知らぬ。
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