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偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


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第二十六話 代わりに断っておきました


 安土へ行ったのは、その三日後である。


 誰にも言わなかった。


 燈にも言わなかった。言えば止められる気がしたからではない。燈は止めない。ついてきて、代金を取ろうとする。それが面倒だっただけである。


 仮の屋形で、信長は絵図を見ていた。


 安土の縄張りである。石垣の線と、堀の線と、天主の位置に印がついていた。彼はその上に指を置き、動かし、また置いた。


「医者」


 顔を上げずに言った。


「はい」


「今日は何だ」


「日向守殿のことです」


 信長の指が、止まった。


「丹波か」


「丹波と、坂本と、京と、朝廷です」


「四つとも、あれがやる」


「無理です」


 信長は、絵図から顔を上げた。


「無理」


「はい」


「あれは、承知したと申した」


「承知しますよ、あの人は」桐庵は言った。「首が落ちても承知しますよ」


 信長は、しばらく黙っていた。


 黙って、桐庵を見ていた。


 そして、絵図に視線を戻した。


「あれは、やれる」


「やれます」


「ならばよい」


「やれますが、やったあとが残りません」


 指が、また止まった。


「どういう意味だ」


 桐庵は、床に座り直した。


 勝手に、絵図の脇まで膝を進めた。信長は動かなかった。


「上様。この石垣ですが」


「なんだ」


「一度に全部積んだら、どうなります」


「崩れる」


「なぜです」


「下が固まっておらぬからだ」


「固まるのに、どのくらいかかります」


「一冬だ」


 桐庵は、うなずいた。


「では、なぜ石垣は待てて、人は待てないんです」


 信長は、絵図を見たまま動かなかった。


 長い沈黙があった。


 普請場のほうから、槌の音が聞こえていた。何十という数の槌が、ばらばらに鳴っていた。


「石は、崩れれば分かる」


 やがて、信長が言った。


「人は、崩れても分からぬ」


「分かりますよ」


「どうやってだ」


「私が見ます」


 信長が、顔を上げた。


 桐庵を見た。


 値踏みではなかった。もっと別の、検分するような目だった。


「医者」


「はい」


「そなた、余に何をさせたい」


「二つ、減らしてください」


「二つ」


「京の治安と、朝廷の繋ぎです」


「誰にやらせる」


「村井殿は、京におられますよね」


「おる」


「では、その方に」


「あれは、そこまで才がない」


「才は足りなくていいです。人手が足りないので」


 信長は、鼻から息を吐いた。


 それから、絵図に手を置いた。


「丹波は」


「丹波は、日向守殿でよいと思います。ただ、期限を延ばしてください」


「どのくらい」


「二年」


「長い」


「では三年で」


「増えておるではないか」


「値切ってくださっていいですよ」


 信長は、笑った。


 声を立てて笑った。


 それから、手を打った。


 小姓が入ってきた。


「村井に文を出せ。京の町方は、これよりあれが預かる。朝廷の繋ぎも同様」


 小姓が、動きを止めた。


「……日向守様は」


「丹波だけでよい」


 小姓は、深く頭を下げて、出ていった。


 桐庵は、少し呆気に取られていた。


「よろしいんですか」


「何がだ」


「いえ、もっと、こう」


「余は、決めるのが速い」


 信長は絵図に指を置いた。


「遅いのは、家臣どもだ」


 その言葉が出るまでに、半刻もかかっていなかった。


 桐庵は、この男のことを少しも分かっていなかったのだと、そのとき思った。


 決めるのが速いというのは、間違いを直すのも速いということである。


 光秀が蔵へ来たのは、五日後だった。


 降りてくる足音が、初めて乱れていた。


「医者殿」


 声が、震えていた。


 怒りで震えているのだと、桐庵は思った。


 違った。


 青ざめていた。


「京の件を、上様が村井殿へ回されました」


「そのようですね」


「朝廷の繋ぎも」


「はい」


「なぜにございます」


「私が申し上げたので」


 光秀の顔から、血の気が引いた。


 立ったまま、両手を体の脇で握りしめていた。


「なぜ、そのようなことを」


「多すぎましたので」


「それがしは、承知いたしました」


「承知されました」


「承知した以上、やり遂げます」


「やり遂げられるでしょうね」


「では、なぜ——」


「やり遂げたあとに、日向守殿が残らないからです」


 光秀が、口を閉じた。


 閉じたまま、しばらく動かなかった。


 やがて、彼は座った。


 座り方が、いつもと違った。膝の位置が揃っていなかった。


「医者殿」


「はい」


「それがしは、上様に信を失いました」


「失っていませんよ」


「失いました」


「上様は、そういう方ではありません」


「医者殿には、分かりませぬ」


 声が、低くなった。


 初めて聞く声だった。


「それがしは、美濃を出ました。越前で十年、浪々いたしました。仕える家がないというのが、どういうことか、ご存じか」


「存じません」


「誰も、名を呼びませぬ」


 光秀は、膝の上で拳を作った。


「十年、誰にも名を呼ばれませんでした」


 蔵の中で、湯が沸いていた。


 燈が、台の上で動かずにいた。


「上様は、それがしの名を呼んでくださいます」


 光秀は言った。


「『光秀』と。あの方だけが」


「はい」


「それがしは、呼ばれ続けねばなりませぬ」


「だから、断れないんですね」


 光秀は、答えなかった。


 答えないという答えを、桐庵は受け取った。


 そして、初めて——この人の胃が痛む理由を、正確に理解した。


「日向守殿」


「なんにございます」


「一つだけ、申し上げます」


 桐庵は床几を引いて、正面に座った。


 膝が触れそうな距離である。


「上様は、日向守殿に四つ振りました。私が二つ減らしました。上様は、半刻で減らされました」


「……」


「怒られませんでした。呼ぶのもやめませんでした」


 光秀は、床を見ていた。


「明日、上様に呼ばれたら、日向守殿はまだ光秀です」


 男は、動かなかった。


 長いあいだ、動かなかった。


 やがて、立ち上がった。


「……失礼つかまつる」


 階段を上る足音は、いつもの、軋まない足音に戻っていた。


──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇一三


 氏名 明智十兵衛光秀

 年齢 四十九

──────────────────

 主訴

  胃が痛む。眠りが浅い。


 所見

  任のうち二つを、医師が主君に直談判し削減。

  本人、来院。顔面蒼白。声の震え。

  初めて、過去について自発的に言及。

  浪々十年。「誰にも名を呼ばれなかった」


 診断

    ──


 処方

  断られた世界が、どうなるかを見ること。


 備考

  断れぬのではない。

  名を呼ばれ続けねば、消えると思っている。

──────────────────


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