第二十三話 優等生は助けを求めない
戸の外に、湖があった。
桐庵は十三段を上りきったところで足を止め、しばらくそれを見ていた。灰色の水が、見えるかぎり奥まで続いている。岸に葦が茂り、小舟が三艘、繋がれて揺れていた。
空気が緩んでいた。雪の匂いがない。
斜面に、若い草が出ていた。
「燈さん」
「なんです」
「春です」
「そうですか」
村へ降りて、年を訊いた。
天正四年、と言われた。
桐庵は、指を折った。
彼が信長と別れたのは天正三年の九月である。甲斐で冬を越し、天文十七年の桜を見て、また甲斐へ戻り、そして今日、湖のほとりに出た。
彼の体感では、三月ほどである。
外では、半年が過ぎていた。
そのあいだ、彼はどこにもいなかった。
蔵へ戻ると、燈が看板の板を抱えて待っていた。
「立てるんですか」
「立てます」
「ここ、どこです」
「近江だそうです」
燈は板を受け取り、斜面に突き立てた。
よろづ こころの療治
三日目に、使いが来た。
若い武士だった。丁寧に階段を降りてきて、丁寧に腰を折った。
「坂本城の者にございます。主が、診ていただきたいと」
「どなたです」
「明智日向守と申します」
その男は、約束の刻限より四半刻早く来た。
降りてくるとき、板の軋む位置を一段ずつ確かめるように降りた。
痩せていた。背は高くも低くもない。月代をきれいに剃り、衣に皺が一つもなかった。歳は五十に近いはずだが、姿勢がまっすぐで、そう見えなかった。
彼は蔵の中を見渡し、桐庵を見て、丁寧に頭を下げた。
「明智十兵衛と申します。本日はお時間をいただき、かたじけない」
桐庵は床几を引いた。
「どうぞ」
光秀は座った。
膝が触れそうな距離である。彼は一瞬、目を伏せた。伏せただけで、身を引かなかった。
「主訴は」
「しゅそ」
「困っていることです」
「胃が、痛みます」
「いつからですか」
「一年ほど」
「どんなときに」
「朝方が多うございます。空腹のときに、灼けるような」
明瞭だった。
答えが速く、正確で、余計なものが一つもない。これまでの患者は、皆どこかで話が逸れた。信長は鶏の話をされて怒り、信玄は二十年黙り、勘助は自分の顔の話をした。
この男は、逸れなかった。
「他には」
「眠りが浅うございます」
「何刻ほど」
「二刻ほどかと」
「二刻」
「はい」
「それは、短いですね」
「戦国の世では、普通かと存じます」
桐庵は筆を止めた。
止めて、顔を上げた。
光秀は、微笑んでいた。
嫌な笑い方ではない。相手を安心させる笑い方である。人を長く不快にさせないために磨き上げた笑い方だった。
「日向守殿」
「はい」
「お仕事は、お忙しいですか」
「忙しゅうございます」
「大変ですか」
「大変ではございません」
「本当に」
「はい」
即答だった。
桐庵は、少し座り直した。
「では、腹の立つことは」
「ございません」
「一つも」
「ございません」
「上様に無茶を言われることは」
「上様は、それがしを買うてくださっております」
答えが速い。
速すぎる。
桐庵は、この速さを知っていた。考えて出た答えではない。何度も口にして、体に染み込んだ答えである。
後の世に、この状態には名前がついている。
適応反応症、という。
降りかかってきたものが大きすぎて、気分と体が追いつかなくなる。落ち込む、眠れない、腹が痛む、仕事が回らなくなる。もとから壊れていたのではなく、降りかかったものが重すぎただけである。だから、その重さが取り除かれれば、半年ほどで元に戻る。名前のつけ方そのものに、そう書いてある。
取り除かれれば、である。
この人の頭上にあるものは、取り除かれない。
胃のほうにも、別の名前があった。
機能性ディスペプシア、という。焼けるように痛む。すぐ腹が張って食べられなくなる。ところが腹の中を隅まで調べても、傷も腫れも見つからない。何も出ないのに痛む、という状態にも、後の世はきちんと名前を用意している。
ただし、と桐庵は思った。
胃が痛むこと自体は、病ではない。あの主君の下で四年働いて胃が痛まない人間がいたら、そちらのほうが、どこか壊れている。
痛むのは、この人が正しく働いているからである。
「日向守殿」
「はい」
「今、私は上様の悪口を言ってくださいと申し上げました」
光秀の微笑が、わずかに固まった。
「……そのようには、伺っておりませんが」
「そういう意味で申し上げました」
「それは」光秀は膝の上で手を重ね直した。「それは、いたしかねます」
「なぜです」
「それがしは、家臣ゆえ」
「ここには、上様はいませんよ」
「おらずとも、同じにございます」
桐庵は、うなずいた。
うなずいて、筆を置いた。
「分かりました」
それきり、診察は四半刻で終わった。
光秀は薬をもらい、丁寧に礼を言い、丁寧に立ち上がり、階段の下で一度振り返って、また頭を下げた。
「本日は、かたじけのうございました」
「また来てください」
「はい。必ず」
そう言って、上っていった。
板が、一段も軋まなかった。
足音が消えてから、燈が台から降りてきた。
降りて、桐庵の前に立った。
「いい人ですね」
「そうですね」
「代金も、言う前に置いていきました」
「でしょうね」
燈は、桐庵の顔を見た。
「なんですか、その顔」
桐庵は、紙を引き寄せた。
線を引きながら、言った。
「あれが、一番危ない型です」
「危ない」
「ええ」
「なぜ」
「助けてと言えないからです」
筆が、紙の上で止まった。
「助けてと言える人は、たいてい助かります」桐庵は言った。「言えない人は、周りが気づいたときには、もう」
彼はその先を言わなかった。
燈も、訊かなかった。
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診 療 録
患者番号 〇〇一三
氏名 明智十兵衛光秀
年齢 四十九
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主訴
胃が痛む。眠りが浅い。
所見
問診への応答、すべて即答。
睡眠二刻。本人はこれを「普通」と述べる。
不満、怒り、疲労、いずれも「ない」と回答。
微笑が、一度も崩れなかった。
診断
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処方
次回、必ず来ること。
備考
答えが速すぎる者は、
考えて答えているのではない。
用意した答えを、出しているだけである。
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