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偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


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第二十二話 診療録・武田信玄


 晴信は、三日後に来た。


 降りてくるのに、やはり時間をかけた。板が一段ずつきしんだ。最後の三段は手すりを掴んだ。


「医者」


「はい」


「湯をくれ」


 桐庵は湯を汲んだ。


 晴信は椀を受け取り、両手で包んだ。冬の甲斐である。蔵の中でも息が白い。


「眠れましたか」


「少し」


「どのくらい」


「四半刻ほど、余分に」


「それは、大きいですよ」


「大きいか」


「二十年ぶりの四半刻です」


 晴信は、湯を飲んだ。


 飲んでから、言った。


「医者」


「はい」


「儂は、あれからよく考えた」


「何をです」


「お主が申したことだ。『皆は、上様に見せておらぬだけかもしれぬ』と」


 桐庵はうなずいた。


「山本に訊いた。内藤にも訊いた。馬場にも訊いた」


「何と」


「疲れておるか、と」


「お返事は」


「三人とも、疲れておらぬと申した」


 桐庵は、笑った。


「でしょうね」


「嘘か」


「嘘です」


「なぜ分かる」


「三人とも、ここへ来ましたので」


 晴信の指が、椀の縁で止まった。


 止まったまま、しばらく動かなかった。


 やがて彼は、椀を置いた。


「医者」


「はい」


「儂は、二十年、誰にも申さなんだ」


「はい」


「先日、申した」


「はい」


「お主にだ」


 蔵の中が、静かだった。


 外で雪が落ちた。屋根から滑って、どさりと音を立てた。


「なぜ、お主に申したのであろうな」


「私が、他人だからです」


 晴信は、桐庵を見た。


「他人」


「家臣でも、身内でも、坊主でもありません」桐庵は言った。「明日いなくなっても、誰も困らない人間です」


「困らぬか」


「困りません」


「儂が困る」


 太い男は、そう言った。


 言ってから、自分が何を言ったのかに気づいたらしかった。


 少し、ばつの悪そうな顔をした。


 桐庵は、それを見なかったふりをした。


「上様」


「なんだ」


「一つ、お願いがあります」


「申せ」


「諏訪の四郎殿を、名で呼んでいただけませんか」


 晴信の顔から、表情が消えた。


 消えたというより、動かなくなった。


 長い沈黙があった。


 湯が沸いていた。燈は台の上で膝を抱えていた。


「……あれが、何か申したか」


「何も」


「嘘を申せ」


「何も申していません」桐庵は言った。「私が勝手に申し上げています」


 晴信は、膝を太い指で叩いた。二度、三度。


「儂は、あれを買うておる」


「伝わっていません」


「伝わっておるはずだ」


「伝わっていません」


 男は、指を止めた。


 それから、低く言った。


「儂は、父に名を呼ばれたことがある」


 桐庵は、顔を上げた。


「太郎と呼ばれた。毎日呼ばれた」晴信は椀を見ていた。「その父を、儂は追った」


「はい」


「名を呼ぶというのは、そういうことだ」


 蔵の中で、何かが変わった。


 桐庵は、それを言葉にできなかった。


 言葉にしないまま、聞いていた。


「呼べば、あれは儂の子になる」晴信は言った。「儂の子になれば、いつか儂を追うことになる」


「そうとは限りません」


「限る」


「上様」


「儂は、父を追った」男は顔を上げた。「追われる側に、回りたくはない」


 桐庵は、床几に座ったまま、動かなかった。


 この人の不眠は、二十年前の夜のことではなかった。


 二十年前の夜が、まだ終わっていないことだった。


 あの夜は、まだ続いている。父を追った男の中で、これから追ってくる者を数える形で、毎晩、続いている。


「上様」


「なんだ」


「それは、眠れませんね」


 晴信は、答えなかった。


 答えずに、椀を取り、残りの湯を飲み干した。


 立ち上がった。台がきしんだ。


「医者」


「はい」


「儂は、明日も来る」


「どうぞ」


「明後日も来る」


「どうぞ」


 男は階段に足をかけた。


 かけて、止まった。


「灸というのは、効くのか」


 桐庵は、顔を上げた。


「効きますよ」


「熱いか」


「熱いです」


 晴信は、しばらく考えていた。


 それから、手を振って上っていった。


「今度でよい」


 足音が消えてから、燈が言った。


「診療代」


「取り損ねましたね」


「取りました」


「いつ」


「さっき、湯を渡すときに袖から」


 桐庵は、燈を見た。


「それは、盗みでは」


「診療代です」


 彼は、それ以上何も言わなかった。


 紙を引き寄せ、綴じを開いた。


 武田大膳大夫晴信の診療録は、四枚になっていた。


 彼は五枚目に線を引き、最後の欄に筆を止めた。


 書くのに、少しかかった。


──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇〇六


 氏名 武田大膳大夫晴信

 年齢 四十一

──────────────────

 主訴

  眠れぬ。二十年。


 所見

  入眠、四半刻の改善。

  二十年間の秘匿事項を、当院で開示。

  「追われる側に回りたくはない」と発語。

  不眠の原因は、過去の一夜ではなく、

  その一夜が現在も継続していることにある。


 診断

    ──


 処方

  次回、灸。本人の希望による。


 備考

  二十年、誰にも言わなかった人が、一度言った。

  それで眠れるようになるわけではない。

  ただ、抱えているものが、一つ減る。

──────────────────


 筆を置いて、桐庵は綴じを閉じた。


 閉じてから、まだ薄い束を、掌で押さえた。


 表で、風が鳴っていた。


 明日、戸の外に何があるのかを、彼は知らなかった。


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