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偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


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第二十一話 父と比べるな


 その子は、一人で来た。


 供もなく、名も告げず、階段の途中で止まって、蔵の中を見下ろしていた。


「どうぞ」


 桐庵が言うと、少年は最後の四段を降りてきた。


 十六か、そのくらいに見えた。背はもう大人に近い。肩幅がある。顔立ちは整っていて、目が大きい。着ているものは上等だが、袖のあたりが少し擦れていた。


 彼は台の前に立ったまま、座らなかった。


「座ってください」


「よい」


「立っていると、話が短くなります」


 少年は、桐庵を見た。


 それから、座った。


 桐庵は床几を引いて、正面に置いた。膝が触れそうな距離である。少年は身を引いた。引いてから、引いたことを恥じたような顔をした。


「名を伺っても」


「四郎」


「ご姓は」


 少年は答えなかった。


 桐庵は、それ以上訊かなかった。


「主訴は」


「しゅそ」


「困っていることです」


 四郎は、膝の上に手を置いた。


 置いて、しばらく黙っていた。


 湯が沸いていた。燈は台の上にいた。表で、雪が落ちる音がした。屋根に積もったものが、ときどき滑って落ちる。


 四半刻、沈黙が続いた。


 桐庵は待った。


「……医者」


「はい」


「父上に、名を呼ばれたことがない」


 桐庵は、筆を取らなかった。


 取らずに、聞いていた。


「一度も」


「一度も」


「何と呼ばれますか」


「諏訪の、と」


 少年は、自分の膝を見ていた。


「儂は諏訪の家を継いだ。母が諏訪の者ゆえ、そうなった。それは、よい。それが役目だ」


「はい」


「だが」


 彼は言葉を切った。


 切って、探した。十六の少年が、自分の中にあるものに当てはまる言葉を探していた。見つからないらしかった。


「兄上は、太郎と呼ばれる」


 やがて、そう言った。


「上の兄上だ。亡くなられたが、生きておられた頃、父上は太郎と呼んでおられた」


「はい」


「儂は、諏訪の、だ」


 桐庵は、うなずいた。


「それは、名ではありませんね」


「名ではない」


 少年の声が、わずかに揺れた。


 揺れたことに、本人が気づいた。気づいて、口を閉じた。


 閉じたまま、しばらく動かなかった。


 桐庵は、待った。


 湯が沸いていた。


 やがて、四郎が言った。


「儂は、父上に似ておらぬそうだ」


「どなたがそう言うんです」


「皆」


「皆」


「家臣も、坊主も、母も」少年は指を組んだ。「父上に似ておれば、と申す。似ておれば、もっと、と」


「もっと、何です」


「知らぬ」


 彼は顔を上げた。


「誰も、その先を申さぬ」


 桐庵は、その顔を見ていた。


 そして、知っていることを、一つずつ数えていた。


 この少年が、十二年後に武田を継ぐこと。


 継いだあと、家臣が誰も彼を認めないこと。


 父が作ったものを守ろうとして、守りきれないこと。


 長篠で、この蔵にやってきた老人たちが——馬場も、内藤も、山県も——一日で死ぬこと。


 そして、この少年が、四百年のあいだ「武田を滅ぼした男」と呼ばれ続けること。


 桐庵は、その全部を知っていた。


 知っていて、言葉が一つも出なかった。


「医者」


「はい」


「何か申せ」


「はい」


「……何も申さぬのか」


 桐庵は、床几に座ったまま、少し前へ身を傾けた。


「四郎殿」


「なんだ」


「一つ、伺ってもいいですか」


「申せ」


「父上のことを、嫌いですか」


 少年の目が、大きくなった。


 それから、すぐに下を向いた。


「……嫌いではない」


「はい」


「嫌いでは、ない」


「はい」


「儂は」


 彼は言葉を切った。


 切って、両手を膝の上で握った。


「儂は、父上のようになりたい」


 声が、小さかった。


「だが、皆が申す。似ておらぬと。似ておらぬから、よいのだとも申す。似ておらぬから、駄目なのだとも申す。どちらなのだ」


「どちらでもないと思います」


 四郎が、顔を上げた。


「似ているかどうかは、四郎殿の話ではありません」桐庵は言った。「皆さんの話です」


「……」


「皆さんが、父上のことをどう思っているかを、四郎殿の顔を見ながら喋っているだけです」


 少年は、桐庵を見ていた。


 見ていて、何も言わなかった。


 やがて、彼は両手で顔を覆った。


 声は出さなかった。


 肩も動かさなかった。


 ただ、手で顔を覆って、そのままの姿勢で長いこと座っていた。


 桐庵は動かなかった。


 背中を撫でなかった。大丈夫だとも言わなかった。慰めの言葉を探さなかった。


 ただ、正面に座っていた。


 燈も、動かなかった。


 湯が沸きすぎて、蓋が鳴った。誰も直さなかった。


 どれだけ経ったか分からない。


 四郎が、手を下ろした。


 目は赤かったが、濡れてはいなかった。泣き方を教わっていない子どもの顔だった。


「医者」


「はい」


「今のは」


「何も見ていません」


 少年は、うなずいた。


 立ち上がって、階段へ向かった。


 三段目で、止まった。


 振り返らずに、言った。


「儂の名は」


 桐庵は、待った。


「勝頼という」


 少年は、そのまま上っていった。


 雪を踏む音が、遠ざかった。


 桐庵は、床几に座ったまま、動かなかった。


 しばらくして、燈が台から降りてきた。


 降りてきて、湯の蓋を直した。


 それから、桐庵の前に立った。


「先生」


「はい」


「泣きそうな顔をしています」


「してません」


「しています」


 桐庵は、筆を取った。


 取って、紙に線を引いた。


 線は、少し曲がった。


──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇一二


 氏名 諏訪四郎勝頼

 年齢 十六

──────────────────

 主訴

  父に、名を呼ばれたことがない。


 所見

  「諏訪の」と呼称される。実名での呼びかけなし。

  周囲は一致して「父に似ておらぬ」と評する。

  その評の意味を、誰も本人に説明していない。

  泣き方を知らぬ。


 診断

    ──


 処方

  名を、呼ぶこと。


 備考

  似ているかどうかは、

  この子の話ではない。

──────────────────


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