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偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


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第二十話 甘利の告白


 戸が、軽かった。


 押すと、あっさり開いた。雪の重さがなかった。


 外は、春だった。


 蔵の前の土に草が生え、少し離れた斜面に桜が一本立っていた。花が散りかけていた。風が通ると、白いものが雪のように流れた。


 桐庵は、しばらくそれを見ていた。


 それから、村へ歩いた。


 同じ村である。同じ井戸があった。ただし井戸端にいたのは、先日の年寄りではなかった。若い女だった。


「あの、今年は」


「天文十七年じゃ」


 桐庵は、うなずいた。


 うなずいて、井戸の縁に手をついた。


「大丈夫かね」


「ええ」


 永禄四年から、さらに十三年。


 合わせて二十七年、戻っている。


 蔵へ帰る道々、桐庵は数えた。この年、晴信は二十八である。父を追ってから、七年しか経っていない。


 馬場は三十四。内藤は二十六。山本は——分からない。あの男の歳は、本人以外は誰も知らないのだろう。


 そして。


 躑躅ヶ崎の館へ行った。


 門で止められた。名を告げても通らなかった。医者だと言うと、間に合っていると言われた。


 それでも粘っていると、奥から人が出てきた。


 若い男だった。二十代の後半。痩せていて、肩の肉が薄い。顔立ちに見覚えがあった。見覚えはあるが、同じ人ではなかった。


 太っていなかった。


 頭も剃っていなかった。


「何者だ」


 声だけが、同じだった。


「桐庵と申します。医者です」


「聞かぬ名だ」


 桐庵は、それを予期していた。


 予期していても、胸のあたりが冷たくなった。


 二日前まで、この男と向かい合って座っていた。膝が触れそうな距離で。父を追ったと打ち明けられた。二十五文を払わせた。


 その全部が、まだ起きていない。


「怪しい者ではありません」


「怪しい」


「そうでしょうね」


 若い晴信は、桐庵の全身を一瞥した。


 それから、門番に顎で示した。


「帰せ」


 その日の夕刻、蔵に客が来た。


 年配の武士だった。五十近い。がっしりとして、眉が太く、声が大きい。階段を降りながら、すでに喋っていた。


「妙な医者がおると聞いた。城下で、まことか」


「妙かどうかは分かりませんが、医者です」


「甘利という」


 桐庵は床几を引いた。


 男は勢いよく座り、勢いよく膝を叩いた。


「主訴は」


「しゅそ」


「困っていることです」


「困っておらぬ」


 また、これである。


 桐庵は待った。


 甘利は蔵を見回し、燈を見て、桐庵を見た。よく喋る男だった。天気の話をし、道の話をし、馬の話をし、若い者の話をした。半刻ほど、そうしていた。


 それから、ふいに黙った。


 黙って、板の床を見た。


「医者」


「はい」


「儂は、主君を追ったことがある」


 桐庵の手が、止まった。


「七年前だ」


 甘利は膝の上で拳を作った。


「先の御屋形様よ。あの方は——よい方ではなかった。人を斬った。理由もなく斬った。国が保たなんだ」


「はい」


「儂と、板垣と、諸将で決めた。若殿を立て、御屋形様を駿河へ送った」


「はい」


「儂が、申し上げたのだ」


 男の声が、少し低くなった。


「若殿に、父君を追えと」


 蔵の中が、静かになった。


 湯の音がしていた。台の上で、燈が動かずにいた。


 桐庵は、筆を持ったまま、何も書かなかった。


「若殿は、迷うておられた」


 甘利は続けた。


「三日、迷うておられた。儂が押した。国のためだと申し上げた。あれは、儂が押さねば、起きなんだ」


「はい」


「正しいと思うておる」


「はい」


「今も、正しいと思うておる」


 桐庵は、顔を上げた。


「甘利殿」


「なんだ」


「眠れていますか」


 男の眉が、動いた。


「よう眠る」


「本当ですか」


「よう眠る」


 繰り返した。


 繰り返すというのは、たいてい、そうでないということである。


 桐庵は、それを言わなかった。


 かわりに、こう訊いた。


「若殿は、眠れていますか」


 甘利の口が、開いた。


 開いたまま、閉じなかった。


 彼は桐庵を見た。太い眉の下で、目が揺れていた。


「……知らぬ」


「訊いたことは」


「ない」


「七年、一度も」


「ない」


 男は膝の拳をほどいた。ほどいて、また握った。


「訊けぬ」


「なぜです」


「儂が押したからだ」


 桐庵は、うなずいた。


 うなずいて、何も言わなかった。


 言えることが、一つもなかった。


 この男は、七年後——いや、この年である。天文十七年の二月、上田原という土地で死ぬ。


 桐庵は、それを知っていた。


 そして、若い晴信がその後二十年、眠れないままでいることも知っていた。二十七年先の蔵で、太った男が湯を飲みながら「二十年ほどだ」と言うのを、彼は聞いている。


 この二人は、同じ夜のことを、別々に抱えたまま、二度と話さない。


 一方は、あと数ヶ月で死ぬ。


 もう一方は、それを知らないまま、二十年眠らない。


 桐庵の喉に、言葉が上がってきた。


 訊いてください、と言いたかった。


 今夜でも、明日でもいい。若殿に訊いてください。眠れていますかと、一言。それだけで。


 言わなかった。


 言えば、この男は動く。動けば、何かが変わる。変わった先に何があるのかを、彼は知らない。


 彼は医者であって、それ以外の何者でもなかった。


「甘利殿」


「なんだ」


「よく眠れているなら、何も申しません」


 男は、桐庵を見た。


 しばらく見てから、立ち上がった。


「そうか」


「はい」


「そうよな」


 甘利は階段を上った。


 三段目で止まって、振り返った。


「医者」


「はい」


「また来てよいか」


 桐庵は、答えるのに、一呼吸かかった。


「どうぞ」


 男は、笑って上っていった。


 声の大きい笑い方だった。


 蔵に残って、桐庵は紙に線を引いた。


 線を引いて、そこから動けなかった。


 燈が、台から降りてきた。


 降りてきて、桐庵の横に立った。


 何も言わなかった。


 銭も要求しなかった。


 ただ、そこに立っていた。


 翌朝、戸を押すと、雪だった。


 外は永禄四年に戻っていた。


 甘利の診療録は、一行も書かれないまま、綴じの中に残った。


──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇一一


 氏名 甘利備前守

 年齢 四十八

──────────────────

 主訴

  困っておらぬ。


 所見

  七年前の主君追放について、自ら語る。

  「正しいと思うておる」を二度。

  「よう眠る」を二度。

  当事者に、一度も確認していない。


 診断

    ──


 処方

  ——


 備考

  同じ夜を、二人が別々に抱えていた。

  二人とも、相手が抱えていることを知らぬ。

──────────────────


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