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偉人メンタルクリニック 〜主訴・天下布武。診断名は、書きません〜  作者: 彩原 綴


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19/26

第十九話 まだ先陣を務めている


 その男は、階段を降りるとき、音を立てなかった。


 体は大きい。肩が戸口に触れそうだった。それなのに、板が一度も鳴らなかった。桐庵は顔を上げて、いつからそこにいるのか分からない大男を見た。


「馬場と申す」


「評定で、私を肘で突いた方ですね」


「寝ておったからだ」


 男は台に座った。今度は板が鳴った。


 髪に白いものが混じっていた。顔は日に焼け、皺が深い。目だけが若かった。四十七だと本人が言った。


「主訴は」


「困っておらぬ」


「では、なぜ」


「上様が、行けと」


 同じ答えである。この館の人間は、全員この答えから始まる。


「では、困っていないという話を伺いましょう」


 馬場は、桐庵を見た。


「変なことを申す」


「困っていない人の話は、たいてい面白いので」


 男は、少し笑った。


 そして、言った。


「儂は、まだ先陣を務めておる」


 桐庵は筆を取った。


「いつからです」


「十六から」


「三十一年」


「そうなる」


「若い方に譲らないんですか」


 馬場の笑みが、消えた。


「譲らぬ」


「なぜです」


「儂より前に出られる者がおらぬ」


「本当ですか」


 男は答えなかった。


 桐庵は筆を置いた。


「では、私がやりましょう」


「……なんと申した」


「先陣です。次の戦、私が務めます」


 馬場は、桐庵の顔を、腹を、腕を、順番に見た。


「無理だ」


「やってみないと分かりません」


「分かる」


「馬は借りられますか」


 半刻後、二人は館の馬場にいた。


 厩から一頭引き出された。おとなしい馬である。馬子が二人がかりで押さえていた。


 桐庵は、台に乗った。


 鐙に足をかけた。


 かけて、そのまま向こう側へ落ちた。


 地面が近かった。土の匂いがした。


 馬子が二人とも吹き出した。馬場は無表情のまま、桐庵のところへ歩いてきて、襟を掴んで引き起こした。


「もう一度」


「立てぬだろう」


「立てます」


 二度目。


 桐庵は鞍にまたがった。またがることはできた。


 馬が一歩、動いた。


 それだけで、桐庵は前のめりになり、首にしがみつき、鞍から半分ずり落ちた。馬は驚いて足を早めた。桐庵は横向きに一町ほど運ばれ、最後に柵の手前で振り落とされた。


 今度は、起き上がれなかった。


 仰向けに寝転がって、空を見ていた。


 影が差した。


 馬場が、覗き込んでいた。


「死んだか」


「生きています」


「どこが痛い」


「全部です」


 男は膝をつき、桐庵の腕を取った。肘を曲げ、肩を回し、脇腹を押した。指が的確だった。三十一年、戦場で人の体を触ってきた者の手だった。


「折れてはおらぬ」


「よかった」


「なぜあんなことをした」


 桐庵は、空を見たまま答えた。


「馬場殿が、譲らない理由が知りたかったので」


「……は」


「分かりました。これは、譲れませんね」桐庵は言った。「私みたいなのが出ていったら、死にます。人が死にます。馬場殿ではなく、後ろの若い人たちが」


 馬場の手が、止まった。


 止まったまま、しばらく動かなかった。


「医者」


「はい」


「それは、褒めておるのか」


「事実です」


 男は、桐庵の腕を離した。


 立ち上がらずに、そのまま地面に胡坐をかいた。大きな背中が、夕日を背にして黒く見えた。


「儂は、譲らぬのではない」


「はい」


「譲れぬのだ」


「はい」


「儂より前に出られる者は、もうおる」男は膝の土を払った。「内藤も出られる。山県も出られる。分かっておる」


 桐庵は、寝転がったまま聞いていた。


「では、なぜ」


 長い沈黙があった。


 厩のほうで、馬が一度鳴いた。


 馬場が言った。


「儂は、槍を置いたら、何になる」


 桐庵は、少し考えた。


 考えてから、正直に答えた。


「四十七の男になります」


 馬場は、動かなかった。


「それだけです」


「……それだけか」


「それだけです」


 男は、笑わなかった。


 笑わずに、長いこと、夕日のほうを向いていた。


「恐ろしいな」


「恐ろしいですか」


「恐ろしい」


 桐庵は、身を起こした。腰が鳴った。


「馬場殿」


「なんだ」


「たぶん、先陣を務めている限り、それを考えなくて済みますね」


 男は答えなかった。


 答えないまま、立ち上がり、桐庵に手を貸した。手は硬く、皮が厚く、そして温かかった。


 二人は並んで歩いた。


 途中で、馬場が言った。


「医者」


「はい」


「今日のことは、誰にも申すな」


「落馬のことですか」


「両方だ」


──────────────────

  診 療 録

  患者番号 〇〇一〇


 氏名 馬場美濃守

 年齢 四十七

──────────────────

 主訴

  困っておらぬ。


 所見

  三十一年間、先陣。交代せず。

  交代可能な人材が存在することを、本人は把握している。

  「槍を置いたら何になる」と発語。


 診断

    ──


 処方

  当面、先陣でよい。


 備考

  役目を手放せぬ者は、

  役目の向こうに、自分がおらぬことを知っている。

──────────────────


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