第十九話 まだ先陣を務めている
その男は、階段を降りるとき、音を立てなかった。
体は大きい。肩が戸口に触れそうだった。それなのに、板が一度も鳴らなかった。桐庵は顔を上げて、いつからそこにいるのか分からない大男を見た。
「馬場と申す」
「評定で、私を肘で突いた方ですね」
「寝ておったからだ」
男は台に座った。今度は板が鳴った。
髪に白いものが混じっていた。顔は日に焼け、皺が深い。目だけが若かった。四十七だと本人が言った。
「主訴は」
「困っておらぬ」
「では、なぜ」
「上様が、行けと」
同じ答えである。この館の人間は、全員この答えから始まる。
「では、困っていないという話を伺いましょう」
馬場は、桐庵を見た。
「変なことを申す」
「困っていない人の話は、たいてい面白いので」
男は、少し笑った。
そして、言った。
「儂は、まだ先陣を務めておる」
桐庵は筆を取った。
「いつからです」
「十六から」
「三十一年」
「そうなる」
「若い方に譲らないんですか」
馬場の笑みが、消えた。
「譲らぬ」
「なぜです」
「儂より前に出られる者がおらぬ」
「本当ですか」
男は答えなかった。
桐庵は筆を置いた。
「では、私がやりましょう」
「……なんと申した」
「先陣です。次の戦、私が務めます」
馬場は、桐庵の顔を、腹を、腕を、順番に見た。
「無理だ」
「やってみないと分かりません」
「分かる」
「馬は借りられますか」
半刻後、二人は館の馬場にいた。
厩から一頭引き出された。おとなしい馬である。馬子が二人がかりで押さえていた。
桐庵は、台に乗った。
鐙に足をかけた。
かけて、そのまま向こう側へ落ちた。
地面が近かった。土の匂いがした。
馬子が二人とも吹き出した。馬場は無表情のまま、桐庵のところへ歩いてきて、襟を掴んで引き起こした。
「もう一度」
「立てぬだろう」
「立てます」
二度目。
桐庵は鞍にまたがった。またがることはできた。
馬が一歩、動いた。
それだけで、桐庵は前のめりになり、首にしがみつき、鞍から半分ずり落ちた。馬は驚いて足を早めた。桐庵は横向きに一町ほど運ばれ、最後に柵の手前で振り落とされた。
今度は、起き上がれなかった。
仰向けに寝転がって、空を見ていた。
影が差した。
馬場が、覗き込んでいた。
「死んだか」
「生きています」
「どこが痛い」
「全部です」
男は膝をつき、桐庵の腕を取った。肘を曲げ、肩を回し、脇腹を押した。指が的確だった。三十一年、戦場で人の体を触ってきた者の手だった。
「折れてはおらぬ」
「よかった」
「なぜあんなことをした」
桐庵は、空を見たまま答えた。
「馬場殿が、譲らない理由が知りたかったので」
「……は」
「分かりました。これは、譲れませんね」桐庵は言った。「私みたいなのが出ていったら、死にます。人が死にます。馬場殿ではなく、後ろの若い人たちが」
馬場の手が、止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
「医者」
「はい」
「それは、褒めておるのか」
「事実です」
男は、桐庵の腕を離した。
立ち上がらずに、そのまま地面に胡坐をかいた。大きな背中が、夕日を背にして黒く見えた。
「儂は、譲らぬのではない」
「はい」
「譲れぬのだ」
「はい」
「儂より前に出られる者は、もうおる」男は膝の土を払った。「内藤も出られる。山県も出られる。分かっておる」
桐庵は、寝転がったまま聞いていた。
「では、なぜ」
長い沈黙があった。
厩のほうで、馬が一度鳴いた。
馬場が言った。
「儂は、槍を置いたら、何になる」
桐庵は、少し考えた。
考えてから、正直に答えた。
「四十七の男になります」
馬場は、動かなかった。
「それだけです」
「……それだけか」
「それだけです」
男は、笑わなかった。
笑わずに、長いこと、夕日のほうを向いていた。
「恐ろしいな」
「恐ろしいですか」
「恐ろしい」
桐庵は、身を起こした。腰が鳴った。
「馬場殿」
「なんだ」
「たぶん、先陣を務めている限り、それを考えなくて済みますね」
男は答えなかった。
答えないまま、立ち上がり、桐庵に手を貸した。手は硬く、皮が厚く、そして温かかった。
二人は並んで歩いた。
途中で、馬場が言った。
「医者」
「はい」
「今日のことは、誰にも申すな」
「落馬のことですか」
「両方だ」
──────────────────
診 療 録
患者番号 〇〇一〇
氏名 馬場美濃守
年齢 四十七
──────────────────
主訴
困っておらぬ。
所見
三十一年間、先陣。交代せず。
交代可能な人材が存在することを、本人は把握している。
「槍を置いたら何になる」と発語。
診断
──
処方
当面、先陣でよい。
備考
役目を手放せぬ者は、
役目の向こうに、自分がおらぬことを知っている。
──────────────────




