第十八話 褒められたことがない
その男は、何も言わなかった。
降りてきて、座って、それきりである。桐庵が主訴を訊いても、「別に」と答えた。歳を訊くと、「三十九」と答えた。名を訊くと、「内藤」と答えた。
それで、終わった。
四半刻、沈黙が続いた。
桐庵は待った。待つのは仕事の大半である。
半刻経った。
燈が銭を数えるのをやめて、寝転がった。
一刻経った。
内藤が、口を開いた。
「上様は、儂のことを何か申しておられたか」
桐庵は、顔を上げた。
「何も伺っていません」
「そうか」
男は、また黙った。
それから、四半刻して言った。
「一度もないのだ」
「何がです」
「褒められたことが」
桐庵は筆を取った。
「一度も」
「一度も」
「何年です」
「二十年」
「その間、功は」
「挙げた」
内藤は、初めて桐庵の目を見た。
「挙げておる。上田原でも、砥石でも、川中島でも。誰よりも前に出た。誰よりも人を返した。上様は、それを知っておられる」
「知っていて、何も」
「何も」
男は、膝の上で拳を握った。
「儂は、それでよいと思うておった」
「今は」
「……よく、ない」
蔵の中が、静かになった。
桐庵は、紙に一行だけ書いた。
それから、立ち上がった。
「どちらへ」
「館へ」
「なぜ」
「上様に、言いに行きます」
内藤の顔色が、変わった。
「やめよ」
「やめません」
「やめよと申しておる」男は立ち上がった。「儂が言わせたことになる」
「なりません。私が勝手に行くので」
「医者——」
桐庵は、もう階段を上っていた。
躑躅ヶ崎の館で、晴信は絵図を見ていた。
桐庵が入ってくると、顔を上げた。
「どうした」
「内藤殿のことです」
「あれが何か」
「二十年、一度も褒めておられませんね」
晴信の指が、絵図の上で止まった。
「褒める必要があるか」
「あります」
「あれは、褒められて働く男ではない」
「そうでしょうね」
「ならば」
「褒められなくても働く人には、褒める必要がないわけではありません」
晴信は、絵図から手を離した。
太い指で膝を叩いた。二度、三度。
「医者」
「はい」
「儂は、あれを誰より買うておる」
「伝わっていません」
「伝わっておるはずだ」
「伝わっていません」桐庵は言った。「二十年、待っておられます」
晴信は、それきり何も言わなかった。
三日後である。
評定の席で、諸将が並んでいた。信濃の配置の話であった。話が終わり、皆が下がろうとしたとき、晴信が言った。
「内藤」
「は」
「よう働いておる」
それだけであった。
晴信はすぐ次の話に移り、評定は終わった。
諸将が下がっていく。
内藤は、座ったままだった。
人が全員いなくなっても、座っていた。
廊下から覗いていた桐庵は、何も言わずにその場を離れた。
その夜、内藤は蔵へ来なかった。
次の夜も来なかった。
三日目の夜に来て、階段の上に立ったまま、降りてこなかった。
「医者」
「はい」
「余計なことをしたな」
「しました」
「……そうか」
男は、それだけ言った。
それだけ言って、帰っていった。
桐庵は紙を引き寄せ、線を引いた。
書きながら、彼は知っていることを一つ、思い出していた。
この男が、十四年後の五月、三河の長篠という土地で死ぬことを。
知っていて、書かなかった。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇九
氏名 内藤修理亮
年齢 三十九
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主訴
なし(開口まで一刻)
所見
二十年間、主君からの評価の言葉なし。
功績は複数。本人、それを正確に記憶。
「それでよいと思うておった」と過去形で述べた。
診断
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処方
——(第三者が介入済み)
備考
「褒められて働く男ではない」というのは、
褒めなくてよい理由には、ならぬ。
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