第十七話 書いておかないと
次に来た男は、紙を抱えていた。
束である。抱えきれずに、階段の途中で三枚落とした。落としたことに気づいて戻ろうとして、また二枚落とした。
「……ええい」
桐庵は階段を上って、拾ってやった。
字がびっしり書いてあった。日付。人の名。場所。何を言ったか。何を決めたか。
「これは」
「返せ」
男は奪うように受け取った。
三十代の半ばに見えた。顔立ちが整っていて、動きが早い。座るとき、紙束を膝の横に、崩れないように角を揃えて置いた。
「春日と申す」
桐庵は筆を取った。
「主訴は」
「困っておることか」
「はい」
男は即答した。
「書いておかぬと、誰も覚えておらぬ」
「何をです」
「何もかもだ」
春日は紙束を叩いた。
「三年前、上様が何を申されたか。誰が反対したか。あのとき、誰が何をしたか。誰も覚えておらぬ。二年も経てば、誰もが違うことを申す。同じ評定におった者が、まるで別の日のことを話す」
「よくあることです」
「よくあってはならぬ」
男の声が、少し大きくなった。
「戦で人が死ぬ。死んだ者のことを、皆すぐ忘れる。三年経てば名も出ぬ。五年経てば、おったことすら忘れる」
桐庵は書いていた。
「だから、書きます」
「書く」
「毎日ですか」
「毎日だ」
「何年」
「十五年」
桐庵は筆を止めた。
膝の横の紙束を見た。これは十五年分の、ほんの一部だろう。
「それは、大変ですね」
「大変ではない」
「いえ、大変です」
春日は、桐庵を睨んだ。
「大変ではないと申しておる」
「では、なぜ困っていると」
男の口が、閉じた。
閉じたまま、しばらく開かなかった。
「……儂が死んだら」
やがて、そう言った。
「誰が書く」
蔵の中で、湯の沸く音がした。
台の上で、燈が銭を数えていた。一文、二文、三文、と小さく声に出していた。数え終えて、また最初から数えはじめた。
桐庵は、そちらへ目を向けた。
燈は、今日で三度目である。
同じ銭を、三度数えている。
「医者」
春日の声で、桐庵は向き直った。
「はい」
「儂が死んだら、誰が書く」
「弟子を取られては」
「取った」
「では」
「三人とも、続かなんだ」
春日は紙束の角を、指で揃え直した。揃っているのに、揃え直した。
「儂の書き方は、細かすぎるのだそうだ」
桐庵は、うなずいた。
「細かいですか」
「細かい」
男は一枚を抜き出して、桐庵に差し出した。
その日の評定の記録だった。誰が何刻に入ったか。誰がどこに座ったか。誰が最初に口を開いたか。晴信が何を言い、そのとき手が動いたか、動かなかったか。
桐庵は、それを二度読んだ。
「春日殿」
「なんだ」
「これは、記録ではありませんね」
男の片眉が、上がった。
「何だと申す」
「見ていた人の、目そのものです」
春日は、差し出した手を止めたまま、動かなかった。
「弟子が続かないのは、細かいからではないと思います」桐庵は紙を返した。「これは、書き写せません。春日殿の目でしか書けないからです」
男は、紙を受け取った。
受け取って、それを見た。
長いこと見ていた。
「……では、どうすればよい」
「どうもできません」
「医者」
「はい」
「それは、慰めか」
「事実です」
春日は、紙を束に戻した。
角を揃えた。今度は、揃え直さなかった。
「儂が死んだら、終わるのだな」
「ええ」
「終わってよいのか」
「よくありません」
桐庵は、筆を置いた。
「だから、書けるうちは書いてください」
男は、顔を上げた。
「私に言えるのは、それだけです」
春日は、しばらく桐庵を見ていた。
それから、紙束を抱えて立ち上がった。
階段の四段目で、彼は振り返った。
「医者」
「はい」
「お主、儂の名を覚えたか」
「春日殿」
「下は」
桐庵は、少し詰まった。
「……伺っていません」
「弾正忠だ」
「春日弾正忠殿」
男は、うなずいた。
「書いておけ」
そう言って、上っていった。
桐庵は紙を引き寄せ、線を引いた。
書きながら、台の上の燈を見た。
燈は、四度目を数えていた。
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診 療 録
患者番号 〇〇〇八
氏名 春日弾正忠
年齢 三十五
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主訴
書いておかぬと、誰も覚えておらぬ。
所見
十五年間、毎日記録を作成。
弟子三名、いずれも継承できず。
「儂が死んだら誰が書く」と反復。
診断
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処方
書けるうちは、書くこと。
備考
覚えられぬことを恐れる者と、
覚えていられぬ者が、同じ部屋におった。
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