第十六話 顔のことを言うな
その男は、戸口で一度、立ち止まった。
入るのをためらったのではない。蔵の中の暗さに、目を慣らしていたのである。片方の目しか使えない者の癖だった。
降りてくるとき、足を引きずった。
背は低い。肌は黒い。右の目が潰れている。頬から顎にかけて、古い傷が走っていた。歳は六十を越えて見えた。
「山本と申す」
声が、意外に高かった。
「どうぞ」
桐庵は床几を引いた。
男は座った。座るときに、左足を前へ投げ出すようにした。曲がらないのだと分かった。
「主訴は」
「しゅそ」
「困っていることです」
山本は、生えかけの髭を撫でた。
「別に、ない」
「では、なぜ来られました」
「上様が、行けと」
「それは、主訴ではありませんね」
男は、片目で桐庵を見た。
値踏みされている、と桐庵は思った。この男は人を見るのが速い。速くて、たいてい当たるのだろう。晴信が側に置いている理由が、座って十呼吸で分かった。
「医者」
「はい」
「お主、儂の顔を見て、何も申さぬな」
「何か申したほうがいいですか」
「たいていの者は申す」
「たとえば」
「気の毒に、と」
桐庵は筆を取った。
「今日も言われましたか」
山本の片目が、わずかに動いた。
「……言われた」
「何度目です」
「数えておらぬ」
「本当ですか」
男は答えなかった。
答えないという答えを、桐庵は受け取った。
「六十年ですか」
「六十九年だ」
数えている。
桐庵は、それを書いた。
そして、筆を置いた。
「山本殿」
「なんだ」
「私は、太っていますよね」
山本の眉が、片方だけ上がった。
「……は」
「太っています。昔からです」桐庵は自分の腹を叩いた。音がした。「走ると重い音がします。先日も、走って四十歩で遅れました。それから汗をかきやすい。夏は人に近寄ると嫌がられます。顔も丸い。目が細い。喋ると唾が飛ぶと言われたことがあります」
山本は、口を開けたまま桐庵を見ていた。
「あと、色が白い。戦国の男はもっと日に焼けていますよね。並ぶと、私だけ蒸した饅頭みたいに見えます」
「……お主」
「それから、声が高い。威厳がないと言われます。大声を出すと余計に情けない。この前、馬に灸を据えようとしたとき、見物人が全員笑いました。馬ではなく、私を見て笑ったんです」
「待て」
「髪も薄くなってきました。あと十年もすれば——」
「待てと申しておる」
山本が、片手を上げた。
「そこまで、ひどくはない」
蔵の中が、静まった。
桐庵は、口を閉じた。
山本は上げた手を、ゆっくり下ろした。下ろしてから、自分が何を言ったのかに気づいたらしかった。
「……いや」
「いま、庇っていただきましたね」
「庇ってはおらぬ」
「庇いました」
「儂は、ただ」
男は言葉を切って、片目を逸らした。
台の上で、燈が銭を数えるのをやめた。やめて、二人を見ていた。
やがて山本が、低く笑った。
笑って、頭を振った。
「妙な医者よ」
「よく言われます」
「上様が気に入るはずだ」
山本は足を組み直した。曲がらない左足を、両手で持ち上げて動かした。
「医者」
「はい」
「儂は、この顔で六十九年生きた」
「はい」
「もう、慣れておる」
「そうでしょうね」
「慣れておるのだ」
繰り返した。
繰り返すというのは、たいてい、慣れていないということである。
桐庵は、それを言わなかった。
かわりに、こう訊いた。
「山本殿。何も言われない日は、どんな気分です」
男の動きが、止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さな声で言った。
「……落ち着かぬ」
「でしょうね」
「なぜ分かる」
「六十九年言われ続けた人は、言われない日を怖がるようになります」桐庵は言った。「言われているうちは、少なくとも見られています」
山本は、答えなかった。
後の世に、この形によく似たものがある。
身体醜形症、という。
自分の顔や体のどこかが醜いと思い込む。鏡を何度も覗いては離れ、隠し、人目を避け、そのために外へ出られなくなる。要は、その思い込みのほうにある。周りには見えていない欠点が、本人にだけ、はっきりと見えている。だから治療は、見え方のほうを直しにいく。
この人は、それではない。
この人の顔には、実際に傷がある。実際に目がない。そして実際に、言われている。六十九年、数えられるほど正確に言われている。
見えているものは、歪んでいない。
歪んでいないものに、歪みを直す薬は効かない。効かないどころか、気にしすぎだと言われたのと同じことになる。それは二度目の傷になる。
桐庵は、その名前を使わなかった。
彼はしばらく蔵の床を見ていて、それから顔を上げた。
「医者」
「はい」
「儂は、来月、信濃へ出る」
桐庵の手が、止まった。
永禄四年。
信濃。
彼は、その先を知っていた。
長篠の後から来た男である。武田がどう終わるかを知っている。そして川中島の四度目に、この男がどうなるかも知っている。
言葉が、喉のところで止まった。
三つ、言いかけた。
三つとも、言えなかった。
「いかがした」
「いえ」
桐庵は筆を取り直した。
「お気をつけて」
「戦だぞ」
「ええ」
「気をつけて戦ができるか」
山本は、また笑った。
笑って、立ち上がった。曲がらない足を庇いながら、十三段を上っていった。
上りきる前に、一度だけ振り返った。
「医者」
「はい」
「お主の腹は、そこまで出ておらぬ」
男は、それだけ言って、出ていった。
桐庵は、しばらく階段を見上げていた。
燈が、台の上から言った。
「何か言いかけましたね」
「言ってません」
「三回、言いかけました」
桐庵は紙を引き寄せ、線を引いた。
「数えないでください」
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診 療 録
患者番号 〇〇〇七
氏名 山本勘助
年齢 六十九
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主訴
なし(本人申告)
所見
右眼欠損、左下肢の拘縮、顔面の陳旧性瘢痕。
容姿について言及された回数を、本人は数えている。
「慣れておる」と二度繰り返した。
診断
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処方
——
備考
六十九年言われ続けた者は、
言われぬ日を、怖がるようになる。
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