第三話 王太子、国家最強の頭脳を発見する
第三話 王太子、国家最強の頭脳を発見する
「……止まった?」
王太子アルベルトは、執務机の上に広げられた魔導収支盤を睨みつけた。
淡い青白い光を放つ水晶板。その中央を流れていた金色の線が、ぴたりと静止している。
王宮裏口座の資金循環。
十年以上追跡していた腐敗の流れだった。
それが突然、完全停止したのである。
「どういうことだ」
低く響く声に、執務室の空気が凍りつく。
側近の文官たちが青ざめながら収支盤を確認していた。
「お、王太子殿下……」
「第四隠し口座、第六裏資産庫、第九王室基金、すべて凍結されています……!」
「そんな馬鹿な。あの口座群は最高位暗号式だぞ」
アルベルトは眉間を押さえた。
昨夜から徹夜続きだった。
王宮の窓の外はまだ薄暗い。朝霧が王都を覆い、冬の空気が石壁を冷たく湿らせている。
机には冷え切ったコーヒーと食べかけの硬いパン。
王太子でありながら、彼の生活は質素だった。
豪華な宮廷料理より、短時間で腹を満たせるものを好む。無駄を嫌う性格なのだ。
対して、腐敗した貴族たちは湯水のように金を使う。
その現実に、アルベルトは長年うんざりしていた。
「解除には宮廷魔導士十人が必要なはずです!」
「外部から干渉など不可能……!」
「何者かが内部認証を書き換えたとしか……」
文官たちの声が震える。
アルベルトは椅子を蹴るように立ち上がった。
「地下保管庫へ行く」
「殿下!?」
「今すぐだ」
黒の軍装外套を羽織る。
銀糸の刺繍が施された王族用礼装だったが、装飾は最低限だ。肩章だけが彼の立場を示している。
アルベルトは長身だった。
剣を佩いた姿は文官というより騎士に近い。
だがその灰青色の瞳には、常に疲労が滲んでいた。
国が腐っている。
その現実を誰より知っているからだ。
地下保管庫へ続く石階段を下りるたび、空気が冷たくなる。
湿った古紙の匂い。
埃。
古いインク。
重苦しい静寂。
そして。
最奥の閲覧机に、一人の女がいた。
静かに帳簿を読んでいる。
蝋燭の灯りが横顔を照らしていた。
黒髪。
透き通るような白い肌。
漆黒のドレスの上から灰銀色のショールを羽織り、細い指先で帳簿をめくっている。
動きには一切の無駄がなかった。
まるで長年ここにいたかのような自然さ。
「……君か?」
アルベルトが低く問う。
女は静かに顔を上げた。
その瞳を見た瞬間、アルベルトはわずかに息を止めた。
冷静だ。
凪いだ湖のように。
感情に溺れず、ただ物事を見つめる目。
「はじめまして、アルベルト殿下」
女は優雅に一礼した。
「レティシア・アシュクロフトと申します」
その名前に、側近の一人が声を上げた。
「アシュクロフト……!? ルードヴィヒ公爵の夫人では!」
「離縁されたと聞いておりますが……」
「ええ」
レティシアはあっさり頷いた。
「昨日、正式に」
まるで天気の話でもするような口調だった。
アルベルトは机を見る。
そこには一枚の紙が置かれていた。
『不適切な資産を一時凍結いたしました』
端正な筆跡。
あまりにも簡潔。
「……これを書いたのは君か?」
「はい」
「一人で?」
「はい」
即答だった。
側近たちがざわめく。
「そんな馬鹿な!」
「王宮財政暗号式だぞ!?」
「不可能です!」
レティシアは不思議そうに首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「そうでしょうか、ではない!」
年配の財政官が怒鳴った。
「暗号解除には高位魔導士が必要だ!」
「いえ、別に」
レティシアはさらりと言った。
「計算式を組み替えただけですので」
沈黙。
誰も理解できない。
アルベルトだけが目を細めた。
「……どうやって?」
「ただの暗算ですが?」
空気が止まった。
財政官たちが青ざめる。
地下管理官に至っては、震えながら後退していた。
アルベルトは数秒黙っていた。
やがて。
肩を震わせ始める。
「……ふ」
小さな笑い。
それが次第に大きくなる。
「はは……!」
地下保管庫に笑い声が響いた。
側近たちがぎょっとする。
アルベルトがこんな風に笑うのは珍しかった。
「最高だ」
彼は本心からそう言った。
長年、王宮の腐敗を追ってきた。
だが証拠が消える。
口封じされる。
裏切られる。
財政官は買収され、貴族は互いに庇い合う。
誰も信用できなかった。
だが。
目の前の女だけは違う。
欲に濁っていない。
恐怖にも媚びにも染まっていない。
純粋に「数字」だけを見ている。
アルベルトはゆっくり歩み寄った。
「レティシア嬢」
「はい」
「なぜこれを?」
レティシアは少しだけ考えた。
そして静かに言う。
「数字が壊れる音が、嫌いなんです」
「……壊れる音?」
「ええ」
彼女は帳簿に触れた。
「誰かが私腹を肥やせば、どこかで必ず誰かが飢えます」
「税が消えれば、孤児院のパンが減る」
「横領されれば、兵士の冬靴がなくなる」
「数字は、誰かの生活です」
地下が静まり返る。
アルベルトは目を見開いていた。
その言葉を、初めて聞いた気がした。
貴族たちは金を権力として語る。
商人は利益として語る。
だがこの女は違う。
人の命として見ている。
「……なるほど」
アルベルトは小さく息を吐いた。
それから、真っ直ぐレティシアへ手を差し出す。
「レティシア嬢」
その声には王族としての威厳と、一人の男としての熱が混ざっていた。
「この国を救ってくれ」
レティシアは少しだけ目を見開いた。
蝋燭の灯りが、彼女の黒髪を柔らかく照らす。
地下保管庫は寒かった。
だがその瞬間だけ、不思議と空気が温かかった。




