第二話 元会計士の「お片付け」
第二話 元会計士の「お片付け」
王都の朝は白く煙っていた。
石畳の道を馬車が軋みながら進み、パン屋からは焼きたての小麦の香りが流れてくる。雪解け水が屋根から滴り落ち、冬の空気に湿った冷たさを混ぜていた。
レティシアはゆっくりと馬車を降りた。
目の前にそびえるのは、王都中央財政局。
灰色の巨大な石造建築は、まるで要塞のようだ。王宮より飾り気はないが、その代わりに重々しい威圧感がある。
国家の金が集まる場所。
つまり、この国で最も欲望が渦巻く場所でもあった。
レティシアは黒のロングコートの襟を軽く押さえた。厚手のウール生地には細い銀糸が織り込まれ、雪明かりを受けて静かに光っている。
離縁の翌朝だというのに、その顔に疲れは見えない。
むしろ晴れやかですらあった。
「本当にこちらでよろしいのですか?」
付き添いの老御者が心配そうに尋ねる。
「ええ。ありがとう」
レティシアは微笑んだ。
「帰りは遅くなるかもしれません」
「……お迎えは」
「不要です」
御者は何か言いたげだったが、深く頭を下げた。
レティシアが財政局へ足を踏み入れた瞬間、空気がざわついた。
「……レティシア公爵夫人?」
「離縁されたって聞いたぞ」
「なんでここに?」
職員たちがひそひそと囁き合う。
インクの匂い。
羊皮紙の擦れる音。
金庫の鍵が鳴る金属音。
財政局特有の空気は、前世の会計事務所を思い出させた。
レティシアは懐かしさに小さく息を吐く。
「お久しぶりです、皆さま」
その一言だけ残し、彼女は受付を素通りした。
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
若い職員が慌てて立ち塞がる。
「地下保管庫は許可が――」
「ありますよ」
レティシアは懐から一枚の札を出した。
王家紋章入りの特別閲覧許可証。
職員の顔色が変わる。
「し、失礼しました!」
「ありがとう」
彼女はそのまま奥へ進んだ。
石の階段を下りるたび、空気が冷えていく。
地下保管庫は薄暗かった。
古い紙の匂い。
湿気。
積み上げられた無数の帳簿。
誰も触れない場所。
いや、正しくは――触れたくない場所。
「相変わらずですね」
レティシアは呟いた。
以前、公爵夫人として王宮へ出入りしていた頃も、ここへ来たことがある。
だがその時ですら、財政官たちはこの地下を嫌がっていた。
理由は簡単だ。
ここには「触れてはいけない金」が眠っている。
レティシアは一冊の帳簿を引き抜いた。
ぱら、と紙をめくる。
古いインクの匂いが立ち上る。
「……やっぱり」
数字が見える。
普通の人間には、ただの収支報告書だろう。
だが彼女の目には違った。
数字の流れ。
不自然な空白。
改ざんされた筆跡。
余白に隠された暗号式。
それらが一本の線となって浮かび上がる。
「第七王室基金から第三港湾税へ偽装送金……」
ぱらり。
「さらに第四隠し口座へ迂回」
ぱらり。
「こちらは北方軍事費へ偽装してますか」
レティシアは静かに笑った。
「雑ですね」
普通の会計官なら絶対に気づかない。
だが元会計士だった彼女には、子どもの足し算より簡単だった。
前世で彼女は、巨大企業の不正会計を暴いてきた。
粉飾。
架空取引。
裏金。
人間は世界が変わっても、やることが変わらないらしい。
レティシアは地下を歩き続ける。
指先でそろばんを弾く。
カチ、カチ、と乾いた音。
数字が脳内で高速回転する。
税収。
裏金。
横領。
王宮支出。
貴族送金。
すべてが巨大な網になって繋がっていく。
そして。
「……なるほど」
レティシアは立ち止まった。
「そういうことでしたか」
公爵家の異常な財力。
赤字だらけなのに潰れなかった理由。
すべて繋がった。
ルードヴィヒ公爵家は、王宮の裏金口座と直結していたのだ。
だからあの男は、自分を有能だと思い込めた。
どれだけ浪費しても、どこかから金が補填されていたのだから。
「本当に愚か」
怒りはなかった。
ただ呆れだけがある。
その時だった。
「……誰だ」
低い声が響いた。
振り返ると、地下管理官の男が立っていた。
肥えた腹。
脂ぎった顔。
高級酒の匂い。
レティシアは一目で理解する。
(この人も繋がってますね)
「地下保管庫は立入制限区域だぞ!」
男は怒鳴った。
「許可証なら」
「そんなもの知らん!」
だがその目は明らかに焦っていた。
レティシアは微笑む。
「第三港湾税から月額金貨八百枚。第六口座経由で受領」
「……っ!?」
「愛人への宝石購入費として処理。帳簿改ざん、お粗末でしたね」
男の顔から血の気が引いた。
「な、なぜそれを……」
「数字は嘘をつきません」
レティシアは帳簿を閉じる。
「人間は嘘をつきますけれど」
地下管理官は後退った。
恐怖が滲んでいる。
レティシアはそんな男を置き去りにし、最奥の閲覧机へ向かった。
そこには古い魔導計算盤がある。
王宮財政専用の認証装置。
通常なら複数人の魔導士が必要だ。
だがレティシアは静かに手袋を外した。
白い指先が、水晶盤へ触れる。
数字が浮かぶ。
膨大な式。
承認コード。
資金経路。
そのすべてを脳内で組み替える。
カチ。
そろばんの音。
カチ、カチ、カチ。
世界が静まり返る。
「では」
レティシアは微笑んだ。
「不正資産を整理しましょうか」
次の瞬間。
王宮各地で警報用の鐘が鳴り響いた。
地下管理官が悲鳴を上げる。
「な、何をした!?」
「ただの正常処理です」
レティシアは涼しい顔で答えた。
「不正口座を一時凍結しただけですので」
「い、一時……!?」
「ええ」
彼女は静かにコートを翻した。
「永久凍結は、これからです」




