第四話 その頃、元夫は地獄への直行便に乗っていた
第四話 その頃、元夫は地獄への直行便に乗っていた
「新しいドレスが欲しいわ!」
朝食の席で、アリアは苺ジャムを塗ったブリオッシュを頬張りながら声を弾ませた。
公爵邸の食堂には甘い焼き菓子の香りが漂っている。磨き抜かれた銀食器が朝日を反射し、白いクロスの上には色鮮やかな果物や卵料理が並んでいた。
だが、その豪華な朝食にもかかわらず、どこか空虚だ。
以前は整然としていた食卓も、今は皿の置き方すら雑だった。
レティシアがいなくなってから、屋敷の空気は目に見えて乱れていた。
「昨日見た翡翠の首飾りも素敵だったの! あと、南の海辺の別荘も買いましょう? あそこ景色が最高なのよ!」
アリアは頬を紅潮させながら喋り続ける。
桃色のドレスには大量のレースと宝石が縫い付けられていた。胸元には大粒のエメラルド。指には新しい金の指輪。
どれも高価だ。
だが品がない。
ルードヴィヒは苦笑しながらワインを飲んだ。
朝から酒だった。
「構わん構わん」
「本当!?」
「ああ。我が家には金があるからな」
彼は得意げに椅子へふんぞり返る。
レティシアがいた頃よりも機嫌がいい。
口うるさい妻はいなくなった。
帳簿を見ろとうるさく言われることもない。
好きな女と、好きなだけ贅沢できる。
最高ではないか。
「でもぉ、レティシア様って、いつもお金に細かかったじゃないですかぁ」
アリアが唇を尖らせる。
「ドレスは三着まで、とか。晩餐会の予算がどうとか。ケチ臭くて嫌だったわ」
「ははっ。あいつは頭が固すぎたんだ」
ルードヴィヒはローストベーコンを切り分けながら鼻で笑う。
「貴族とは見栄を張るものだ。派手に金を使ってこそ威厳が出る」
「さすがルード様!」
アリアがうっとりと見つめる。
その時だった。
食堂の扉が勢いよく開いた。
「旦那様!!」
執事が転がるように飛び込んでくる。
顔面蒼白。
額には脂汗。
白髪交じりの髪まで乱れていた。
「何事だ」
ルードヴィヒは露骨に眉をひそめた。
「朝から騒々しい」
「こ、口座が……!」
「口座?」
「すべて凍結されています!!」
一瞬、沈黙が落ちた。
アリアが目をぱちぱちさせる。
ルードヴィヒは数秒遅れて笑った。
「……は?」
「ですから! 王宮裏口座がすべて凍結され――」
「馬鹿な」
ルードヴィヒは鼻で笑った。
「そんなことできるわけがない」
あの口座は特別だ。
王宮上層部しか知らない裏資産。
何人もの貴族が関わっている。
凍結などありえない。
「確認を」
執事は震える手で魔導収支板を差し出した。
淡い青色の光が浮かび上がる。
ルードヴィヒは面倒そうに視線を向け――固まった。
残高欄。
そこに表示されていた数字は。
【0】
「…………は?」
喉がひゅっと鳴った。
手の中のワイングラスが揺れる。
「な、なんだこれは」
「現在、全口座へのアクセスが遮断されています!」
「解除しろ!」
「それが……王宮認証そのものが変更されておりまして……!」
「そんなことができる人間がいるわけないだろう!!」
怒鳴った瞬間だった。
さらに別の使用人が駆け込んでくる。
「旦那様! 北方銀行から融資停止通知です!」
「西部商会からも契約解除の書簡が!」
「税務局より監査予告が届いております!」
「…………」
ルードヴィヒの顔から血の気が引いた。
背筋を冷たい汗が流れる。
「ま、待て……待て待て待て……」
おかしい。
おかしい。
何かがおかしい。
今までなら、赤字が出ても補填された。
借金をしても、いつの間にか埋まっていた。
だから問題なかった。
なのに。
なぜ。
なぜ急に全部止まる?
「ルード様ぁ……?」
不安げなアリアの声。
「別荘は……?」
「今それどころじゃない!!」
怒鳴りつけると、アリアがびくっと肩を震わせた。
空気が変わる。
甘い朝の空気は消えていた。
残ったのは焦燥と恐怖だけ。
「帳簿を持ってこい!」
「は、はい!」
執事が慌てて分厚い帳簿を運んでくる。
ルードヴィヒはページをめくった。
だが数字が分からない。
以前は適当に見ても問題なかった。
なぜなら。
レティシアが全部処理していたからだ。
「くそっ……!」
ページを乱暴にめくる。
理解できない。
借入。
返済期限。
未払い。
滞納。
赤字。
赤字。
赤字。
胃の奥が冷たくなる。
「旦那様……」
執事が震え声で言った。
「公爵家の現金資産ですが……現在、来月分の使用人給与も難しい状況です」
「……嘘だ」
「事実です」
「そんなはずがない!」
ルードヴィヒは立ち上がった。
椅子が派手な音を立てて倒れる。
「この家は公爵家だぞ!?」
「王家とも繋がりがある! 金が尽きるわけが――」
その瞬間。
彼の脳裏に、離縁の日のレティシアの顔が浮かんだ。
『……三か月後には、あの屋敷も差し押さえですね』
静かな声。
感情のない微笑み。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「……まさか」
「旦那様?」
「いや、ありえん」
ルードヴィヒは頭を振った。
「あいつにそんなことができるわけ――」
だが。
再び視線を落とした帳簿の端に、見慣れた筆跡を見つける。
細く美しい文字。
『支出管理不能。破綻危険域』
レティシアの字だった。
その瞬間。
初めてルードヴィヒは理解しかけた。
この家を支えていたのは、自分ではなかったのだと。
一方その頃。
王宮の温室では、穏やかな午後の日差しが硝子越しに差し込んでいた。
白薔薇の香りが漂う中、レティシアは静かに紅茶を口にする。
今日の茶葉は東方産。
柔らかな花の香りと、わずかな甘みが広がった。
焼きたてのスコーンには木苺ジャム。
隣には王宮御用達のパティシエが作ったレモンタルト。
「お気に召しましたか?」
侍女が尋ねる。
レティシアは微笑んだ。
「ええ、とても」
その表情は穏やかだった。
まるで嵐など存在しないかのように。




