O-29:処分は感情では軽くならない
本作はフィクションです。
作中に登場する「自衛隊」は「自立衛星観測隊」の略称であり、現実のいかなる組織・制度・人物とも一切関係ありません。
なお、万一よく似た部分があったとしても、それは偶然です。たぶん。
(隊長室)
事故対応の年表を起こし始めてから、数日が経っていた。
隊長室の机の上には、処分見込み、上級司令部への報告経過、警務隊から共有された要点、関係者の接触遮断命令の控えが並んでいる。
紙は増えた。
だが、選べる道は減っていた。
隊長は、上級から下りてきた処分見通しの紙を見たまま、しばらく動かなかった。
「……重いな」
向かいで補給科長が答える。
「そうでしょうね」
「先輩陸士長は、保険金詐欺未遂、証拠隠滅、犯人隠避。
後輩1士は傷害に加えて、上官に対する暴力で反抗不服従相当。
情状は拾われとるが、それでも下限寄り止まりか」
「ええ。
もう“中隊内の揉め事”ではないですから」
隊長は紙を置いた。
「先輩陸士長は、最終的には懲戒免職の見込み。
後輩1士も、重い懲戒が入る。
そのあと依願退職やろうな」
「そうなるでしょう」
補給科長の声は静かだった。
静かだが、その静けさが、かえって現実味を増していた。
「……原因を作ったのは先輩陸士長や。
後輩1士も、我慢しきれんかった事情はある。
そこまで見ても、この程度までしか下がらんのか」
「今さら“その場の事情”だけでは拾えません」
補給科長は、そこで一拍置いた。
「暴行だけなら、まだ拾える余地はあったでしょう。
でも今回は、その後に虚偽申告と口裏合わせが乗った。
しかも警察と警務隊が先に動き、上級の関心事項になった。
そうなると、連隊長裁量で柔らかく切れる余地はかなり減ります」
隊長は、目を閉じて長く息を吐いた。
「……やっぱりそこか」
「そこです」
補給科長は淡々と言った。
「処分って、可哀想やから軽くするものやないでしょう。
何をやったか。
どこまで拡大したか。
組織に何を持ち込んだか。
そこです」
「分かっとる」
「なら、今日の話もそこです」
補給科長は、机上のメモを指で軽く叩いた。
「“あの時点なら、まだ守れたかもしれない”を、本管中隊長にちゃんと見せなあかん」
隊長は、そこでゆっくりうなずいた。
「……呼ぶか」
(隊長室)
本管中隊長が入室した時、前よりさらに顔が痩せて見えた。
ここ数日で、少なくとも“何かまずいことになっている”の自覚だけは育ったのだろう。
だが、それでもまだ、自分のどこがどう外したのかまでは掴みきれていない顔だった。
「座れ」
本管中隊長が座る。
隊長は、余計な前置きをしなかった。
「処分見通しが下りてきた」
本管中隊長の肩が、わずかに固くなる。
「先輩陸士長は、懲戒免職の見込みや」
その瞬間、本管中隊長の目が揺れた。
「……免職、ですか」
「そうや。
保険金詐欺未遂、証拠隠滅、犯人隠避。
後輩1士を庇うつもりやったんかもしれん。
でも、やったことはそこや」
本管中隊長は、何か言いかけて、止まった。
隊長は続ける。
「後輩1士は、傷害に加えて上官に対する暴力で重い懲戒や。
背景事情は見られとる。
でも、それでも下限寄りまでしか落ちん」
「……」
「その後は、たぶん依願退職やろう」
しばらく沈黙が落ちた。
本管中隊長は、言葉が出ないまま、机の一点を見ていた。
そこへ、補給科長が静かに口を開く。
「本管中隊長」
「……はい」
「今から言うこと、気分で聞かんでください。事実の話です」
本管中隊長は、ゆっくり顔を上げた。
「先輩陸士長が煽った。
後輩1士が殴った。
そこまでは、貴方がおらんでも起きたかもしれません」
「……」
「でも、その後に起きたこと。
虚偽申告。
口裏合わせ。
警察介入。
警務隊拘束。
上級司令部案件化。
ここは、貴方の認識の甘さで悪化した部分がある」
本管中隊長は、すぐには返せなかった。
補給科長は、淡々と続ける。
「貴方、あの時“先輩が原因を作った”“後輩も反省してる”“本人たちは和解済”で止まったでしょう」
「……そうや」
「つまり、“もうこれ以上大きくせんでええ話や”と思った」
「そうや」
「そこが外れです」
補給科長の声は、低くて静かだった。
だが、逃げ場はなかった。
「人間関係として謝って終わることと、組織として処理が終わることは別です。
今回、暴行と負傷が出た時点で、もう“和解済”を主軸に考える段階やなかった」
本管中隊長の喉が小さく鳴る。
「自分は……大ごとにしたくなかった」
「でしょうね」
「先輩も、自分が悪い言うてた。
後輩も反省してた。
なら、そこで止めたかった」
「分かりますよ」
補給科長はそこで、一度だけ本管中隊長をまっすぐ見た。
「でも、“止めたい”は願望です。
事実やない」
その一言が、やけに重かった。
隊長は、口を挟まなかった。
補給科長はさらに言う。
「適正に初動していたら、まだ違ったんです」
本管中隊長が、顔を上げる。
「違った、とは」
「まず、負傷をちゃんと確認する。
受診を管理する。
受傷理由を嘘で通させない。
暴行と怪我の事実を、そのまま速報で上げる。
関係者を不用意に接触させない。
そこまでやっていれば」
補給科長は、そこで一拍置いた。
「先輩陸士長に保険金詐欺未遂は乗らなかった可能性が高い。
後輩1士も、傷害一本で、しかも先輩側の挑発や謝罪の事情をかなり拾えたかもしれない。
処分だって、まだ貴方の連隊長の裁量で軽く切れる余地があった」
隊長は、その言葉に何も返さなかった。
だが、本管中隊長の顔色は、そこで目に見えて変わった。
「……つまり」
絞り出すような声だった。
「自分が、二人を詰ませた、と」
「そこまで単純化はしません」
補給科長はそう言った。
「殴ったのは後輩1士です。
嘘をついて口裏合わせを主導したのは先輩陸士長です。
貴方がその全部をやったわけやない」
本管中隊長が、ほんの少しだけ息を吐く。
だが、補給科長はそのまま続けた。
「でも」
その一語で、また空気が止まる。
「貴方の認識の甘さが、部下二人を守る最後の機会を潰したのは事実でしょう」
本管中隊長は、今度こそ何も言い返せなかった。
隊長が、そこで初めて口を開いた。
「本管中隊長」
「……はい」
「お前が殴ったわけやない。
嘘を考えたんも、お前やないかもしれん。
でも、お前の“これくらいなら何とかなるやろ”が、部下二人を何とかならん方へ押した」
「……はい」
「今後、お前が管理者を続けるなら、そこを忘れるな」
本管中隊長は、うつむいたまま答えた。
「……はい」
隊長は、しばらく本管中隊長を見ていたが、それ以上は言わなかった。
「下がれ」
本管中隊長は立ち上がり、敬礼し、退室した。
扉が閉まるまで、視線は上がらなかった。
(隊長室)
扉が閉まったあと、隊長はゆっくり椅子にもたれた。
「……しんどいな」
「そうでしょうね」
補給科長は、変わらない声で答えた。
「今回、一番しんどいのは“完全な悪人がいない”ことや」
隊長のその言葉に、補給科長は少しだけ目を細めた。
「ええ。
先輩陸士長も、最後は後輩1士を庇う方向へ走った。
後輩1士も、自分がやったこと自体は認めてる。
本管中隊長も、多分本気で大ごとにしたくなかっただけでしょう」
「せや」
「だから余計に、規則や手順を削ったら駄目なんです」
補給科長は、そこで机上の年表へ視線を落とした。
「善人か悪人かで処理が決まるなら、まだ楽やったでしょう。
でも実際には、善意でも、情でも、庇う気持ちでも、事故は広がる。
だから、感情に頼らず、構造で止めるしかないんです」
隊長は、小さく苦笑した。
「今日は、えらい真っ当やな」
「珍しいですね。褒めてます?」
「半分くらいはな」
「残り半分は」
「怖い」
補給科長は、そこでほんの少しだけ口元を緩めた。
「それで結構です」
隊長室に、少しだけ乾いた笑いが落ちた。
だが、それもすぐに消えた。
先輩陸士長は、もう戻らない。
後輩1士も、たぶんこのままでは残れない。
本管中隊長も、指揮官として大きく傷を負った。
酒の席の、たった一つの暴言から始まった話が、ここまで人を飛ばした。
隊長は、机の上の紙束を見ながら、小さく呟いた。
「……結局、暴行も隠蔽も、誰も幸せにせんのやな」
補給科長は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「ええ。
だから規則は、“面倒なだけのもの”やないんです」
その一言だけが、妙に長く残った。
休日の隊長室は、相変わらず静かだった。
だが、その静けさは、もう何も終わっていないことをよく知っているようでもあった。




