4. 景品は、伯爵の机に
「はい、またお見せします――売場に出さなくても、あなたには見てほしいんです」
終わった市の広場でそう答えると、夫は私の鞄に目を落として頷いた。画帳の角が、布越しに脇腹へ触れる。誰に見せるかも、どこへ持ち帰るかも、私が決めていい画帳だ。
「次に見るときも、頼めばいいんだな」
「ええ、そのときのあなたと、見比べられますから」
夫がもう一度、頷く。モーリッツが空になった売台を抱え上げるのを待ち、私たちは広場をあとにした。
◇
離婚まで、あと八十五日。祭りへ行くと門で告げた私は、入口で早くも足を止める。風に乗って揚げ菓子の香ばしい匂いが届いた。その向こうで、子どもたちの歓声が弾む。
頭上には色とりどりの布が張られ、太鼓と笛の音に合わせるように影が揺れていた。輪投げの屋台を見つけ、私は夫の袖を引く。景品の台にちょこんと座った木の小鳥が、こちらを向いている。
「今日はあれにします――自分で投げて、あの小鳥を連れて帰りたいです」
「よし、取るか! 別れたあと君が困らないように、準備を手伝うのは契約の内だ」
夫が財布を取り出す。遊ぶのにも契約を持ち出すその手へ、自分の財布を掲げてみせた。彼は少し手を止め、代金を分けて握る。
「私の分だ――私も投げる」
屋台へ踏み出しかけたところで、人混みから腹回りの太い男が小走りに近づいてきた。父の使いだ。袖をつかんでいた指が、つい緩む。
「伯爵様もですか。でしたら、お二人でお越しいただけます」
丸く張った頬の汗を拭い、使いは親族への挨拶の会合に迎えに来たと言い添えた。
「門でこちらと伺いましたので――子爵様から、お返事を急ぐようにと仰せです」
返事をするために開いた口は、間に合わなかった。使いは息を継ぐ間もなく、父の口上へ移る。
「『絵が売れたくらいで遊び歩くな。親族への挨拶が先だ』とのことです」
「売れたところはお父様もご覧になったのですから、今日はそのお金で、私の選んだ遊びをさせてください」
使いはもう話が済んだように、馬車のほうへ体を向ける。私はつられそうになった足を、輪投げの屋台へ向け直した。
「実家のお役目を優先なさいませ。遊びなら、またにできるでしょう?」
「私の返事を聞いてください! 今日は祭りを楽しむと決めてるんです」
隣に夫の靴先が並ぶ。使いは私から目を離し、今度は夫を見上げた。
「伯爵様は、これで良いとお考えなのですか?」
「今日の行き先は、妻が決めた」
夫は私を見ている。返事を奪われずに済んだ喉から、細く息が抜けた。使いは何か言いかけたものの、口を閉じて屋台までついてくる。
三投で銅貨二枚。絵の売上から代金を払うと、受け皿で硬貨が澄んだ音を立てた。夫もモーリッツも、自分の分を払う。
私は栗色の片編みを肩の後ろへ回した。受け取った輪は意外に軽く、指の腹にざらりとした感触が残る。
「奥様、腕を大きく振らず、滑らせるつもりで投げるといいですな」
「狙いを定めて、勢いは抑えるんですね?」
頷いて構える私の隣で、夫も輪を持ち上げた。角張った顎先を引き、的と輪の高さを慎重に揃えている。
「もう少し右か、いや、こちらの風を考えると……」
「えいっ!」
輪が小鳥の前の棒をくぐり、からんと鳴った。いきなり成功である。
「入りました! 見てください、私のです!」
「見ていたとも、君が投げるところから」
次の輪は台の端へ落ちる。最後の輪が棒に収まったところで、夫がようやく腕を動かした。
輪は棒の向こうまで飛んでいく。残る分も入らず、景品を受け取るはずの手だけが空いたままになった。
「旦那様、肩に力が入りすぎですぞ――わしが手本を見せます」
モーリッツの跳ね上がる白髭が、得意げな口元でぴんと動く。その輪は棒に触れ、乾いた音を立てて跳ね返った。
「……今のは、外れる投げ方の手本ですな」
「ははっ! 頼んだ覚えはないが」
こらえそこねた笑いが、喉から吹き出す。屋台の縁に手をつく私の前で、御者は残りも外して夫の横へ戻った。
「奥様のほうが、教えたとおりに投げますからな」
「教えた方より上手にできましたし、ほら、小鳥まで私のほうを向いています!」
私の成功は二投、夫は零である。受け取った木の小鳥を掌に載せると、夫が羽の彫り目へ顔を寄せた。指に収まる小さな羽まで、なかなか丁寧にできている。
「……悔しい、あれだけ狙って全部外すとは」
「ふふ、小鳥が逃げそうなほど真剣でしたね」
夫の眉間にしわが寄った。私は小鳥をくるりと回し、その顔へ向ける。
「君が外したら、私が慰める予定だった」
「予定では、そうなんですけど」
「その小鳥は欲しかったし……君の手にあると、なおさらよく見える」
小鳥の台をつまみ、夫の空いた掌へそっと載せた。自分で連れて帰りたかったはずなのに、渡す指はためらわない。彼の大きな手に収まると、小鳥はいっそう小さく見える。
「では、上手に外した記念ではなく、私が取れた記念に贈ります」
「旦那様、慰めるほうが逆ですな」
御者に横から口を挟まれ、夫は掌を見下ろした。私は唇を結んでみる。それでも、その耳のそばで笑いが漏れてしまう。
「慰められるのは、どうも得意ではないらしい」
「では練習に、今日は勝った私に慰めさせてください」
落とさないように、夫の指が小鳥を囲む。私が手を引いても、小鳥はそこに残った。好きに使っていい売上から、誰かのための贈り物を選んだようで――そこまで考え、指先を握り込む。
「ありがとう、これは大事にする」
「上手に外した記念も、ついでに覚えておきますね」
「それは忘れてくれ」
待っていた使いが一歩進み、笑い声の間へ靴音を差し入れた。その目が夫の小鳥から私の財布へ戻る。私は財布を鞄へしまい、顔を上げる。
「奥様、では、これでご挨拶へ……」
「今日は行きません。自分の絵の売上で遊んで景品も取ったと、そうお父様へ伝えてください」
使いは口を閉じた。私は急かさず、返事を待つ。やがて、丸い顎がゆっくりと下がった。
「お嬢様は今日はお越しにならず、ご自分の絵の売上で遊ばれ、景品も取られた、とお伝えします」
迎えの馬車が、私たちを乗せずに遠ざかる。車輪の音が祭りのざわめきに紛れると、ようやく肩から力が抜けた。夫と木陰へ腰を下ろせば、汗ばんだ首筋を涼しい風が通っていく。
画帳に描く四枚目は、負けた夫の顔だ。膝の上で紙を押さえると、掌にはまだ輪のざらつきが残っていた。
小鳥を見る目と寄せた眉を、鉛筆の先で追っていく。描き終えて差し出すと、夫は紙の中の自分を見つめ、短く息を吐いた。
「そんなに残念そうだったか?」
「ええ、でも描いている間に少し変わって、今は小鳥をよく見ていますね」
「描かれている間に、顔が変わったのか?」
「小鳥を撫でていらしたので……親指で、何度も」
夫は親指を止め、小鳥を上着で包んだ。羽に布をかぶせる手つきを、つい目で追ってしまう。帰ったら書斎に来てくれという誘いに、私は画帳を閉じる手を止めて頷いた。
◇
夜、招かれた書斎の扉を叩く。結婚してから初めての、私室への招きだった。昼にはあれほど笑えたのに、返事を待つ間、自分の指を無意味にこすってしまう。夫の声に促されて入ると、ランプの明かりの輪が目に入った。
窓辺にも棚にも空きはある。けれど小鳥の姿は、そのどちらにもない。広い机に近づくほど、昼間その羽を撫でていた親指が思い浮かぶ。
夫は景品を机に飾っていた。
「どうして、その机に飾ったんですか?」




