3. 夫の肖像だけ、売れ残った
「君も笑っていた。芝居が終わってからも」
帰りの馬車で、夫は私の顔を見て答える。車輪が石畳を踏むたび、窓に映る私も小さく揺れた。その口元は、言われたとおり、まだ緩んでいる。
「隣の方が、あんなに楽しそうでしたから。描いた絵まで笑っています」
「私に見せてくれたものか?」
私は頷き、鞄の上から画帳を撫でた。あの笑顔が紙の間にあると思うと、指を離しがたい。次の願いは、自分の描いた絵を売ることだ。
「今度は市へ持っていきたいんです。あなたのあの絵も、出していいでしょうか?」
「いい。出す絵は、君が選んでくれ」
◇
離婚まで、あと八十七日。朝、画材店を経て市へ行くと門番に告げ、私は絵を抱えて出発した。
画材店の戸を開けると、油絵の具と乾いた紙の匂いが鼻をくすぐる。ベアテは売台を空けて待っていた。二十二歳の友人が、私の抱えてきた絵を手早く窓辺に並べていく。
赤金の巻き毛が、劇場で描いた夫の肖像へ傾く。そばかすの散った頬が、にんまりと持ち上がった。私の画帳は両手のひらほどの糊綴じで、売る絵だけを外せる作りだ。外した紙は、画帳の中にあったときより、なんだか頼りなく見える。
「旦那様が喜ぶかより、あなたが描きたいかで選びなよ」
「この顔を描きたかったんです。でも、もっと立派な姿のほうが売れるでしょうか?」
肖像へ伸ばしかけた私の手から、ベアテは次の絵を受け取った。以前描かせてもらった、町の子の習作だ。
「選ぶ前から取り替えないの! 今日はあなたの絵を買ってもらうんでしょ?」
「予定では、そうなんですけど」
私は夫を見る。店の入口で足を止めた彼と、目が合った。
「手伝うことがあったら何でも言ってくれ。別れたあと君が困らないように、準備を手伝うのは契約の内だ」
「あたしが貸すのは台だけ。旦那様も、買うお客にはならずに見ててよ」
「運ぶのと、呼び込むのはどうだ?」
「それなら大助かり! 旦那様の肩なら、台二つは担げそう」
ベアテは笑って台を示す。「別れたあと」が胸に引っかかったまま、私は出す絵を選んだ。肖像も習作の横へ戻す。この顔を描きたかったことまで、引っ込める必要はない。
広場の市は、朝から人の声と蜂蜜菓子の甘い匂いで満ちている。モーリッツが借りた台を据え、跳ね上がる白髭の下から、ふうと息を漏らした。
「この向きならお客に見えますな。絵の並べ方は奥様にお任せしますよ」
私は栗色の片編みを背へ払い、習作と肖像を並べる。
夫が人々たちの方へ進み、両足をきっちり揃えた。
「こちらで絵を販売する! ぜひ、ご覧いただきたい!」
「旦那様、それじゃお祝いの挨拶でしょ! 肩、下げて」
ベアテの手につられて、夫の肩がすとんと下がる。通りかかった子まで背筋を伸ばして真似をするので、私はこらえきれずに笑った。
「ロジーナ、お前はここで何をしている?」
父の声だ。笑いかけた口が、その形のまま動かなくなる。門番に行き先を聞いたらしい。
「絵を売ります。これは一枚……」
「お前の絵に金を払う者などいない」
父は黒い目を細め、値を聞く前に言い切る。台の上で、紙の端が風に震えた。習作を覗いていた母親が、顔を上げる。
「売れない絵を抱えて立つより、帰って家のことを覚えなさい」
「自由にさせてください! 一枚、銅貨六枚です!」
喉がきゅっと狭くなる。息を吸うのも苦しいのに、口にした声は市のざわめきに負けなかった。引っ込めようとする指を、台の縁にかけておく。
父は薄く結んだ唇を曲げる。母親はその脇から手を伸ばし、習作の子どもを指さした。
「この子、うちの子です。家で見るより、ずっと嬉しそう」
「パンをもらった直後に描きました。見せたら、もっと大きく笑ってくれたんです」
「この顔を家でも見たいわ。これをください」
母親の財布が開く。差し出された銅貨を、私は両手で受け取った。掌に重みが落ちる。硬い縁に触れる指先へ、まだ人肌の温かさが伝わってくる。
「ありがとうございます! 私の絵を買ってくれる方もいるんですね」
「何言っとる! その客は伯爵の知り合いだろう!」
父の声に、通りの人が振り向く。私は代金を台の上へ置いた。銅貨が触れ合う小さな音を聞いてから、顔を上げる。
「この方は絵を見て、ご自分で選んだんです。お付き合いで買ったことにしないでください!」
「私はうちの子の絵が欲しいだけですよ?」
母親が習作をそっと胸に寄せる。父の声がしたときにも離さなかったその手を見て、やっと息がほどけた。ベアテが私の腕を軽く叩く。
「ほら、売れた! あなたが描きたい顔を、欲しいって言う人がいるんだよ!」
見ていた客から、自分の顔もと注文が入る。待つと言って別の客まで並び、私は慌てて鉛筆を取った。指にうまく収まらず、握り直す。
注文客の顔を描く合間に、画帳へ夫の顔も三枚目として残した。角張った顎先から力が抜け、こちらを見る顔はほっとしたように見える。夫にだけそっと見せ、今日のこの絵は鞄へ収める。
注文の絵にも、それぞれ銅貨六枚が支払われた。三枚の売上は、銅貨十八枚だ。数え終えても、指先にはまだ銅貨の重みがある。
父は何も言わず馬車へ戻っていった。遠ざかる背中を、今日は追わずに見送る。
「売れましたね。ベアテ、私が付けた値段で!」
「ええ、聞こえてたよ! 次のお客にも、その声で値段を言いなよ」
「……手が震えています。見てください、まだ止まらないんです」
「震えてていいの。最初のお代なんだから」
私は売上を財布に収めた。紐を締めても、何度も指で膨らみを確かめてしまう。前は父の財布が開くのを待つだけだった手で、今日は自分の絵を包み、送り出している。
夕方、石畳の影が伸び、蜂蜜菓子の匂いも薄くなってきた。帰っていく人の流れを横目に、私たちも片付けを始める。台の上では、夫の肖像がまだ笑っている。
「売上、おめでとう。君の絵を抱えて帰る人を見られて、よかった」
「ありがとうございます。……でも、最後までいなくても良かったのに……」
私は肖像の端を押さえる。客は自分や家族の顔を選び、この知らない男の前は通り過ぎていった。笑い方まで知っている私には、つい目が留まる絵なのだけれど。
「これは私が買おう」
「それ、ご自分の絵ですよ」
夫が台へ寄る。私は考えるより先に、その絵を胸へ引いた。紙の薄さが、服越しにも分かる。
「君が、こんな顔の私を見ていたと分かる」
「……では、非売品にします」
夫の手が空中で止まる。台の絵を見て下がっていた口の端が、今度はゆっくり上がった。
「売るのをやめるのか?」
「ごめんなさい。でも、私が持っていたいんです」
言ってから、紙を抱く腕に少し力が入る。夫は伸ばした手を下ろし、私が握りすぎた紙の端へ目を向けた。
「君の絵だ。けれど、見たいと言うことはできるだろうか?」
「はい。見るときは私に言ってください。勝手に持っていくのは駄目ですよ?」
「そこは守ろう。今、見せてもらえるか?」
私は絵を胸から離す。夕日の差す紙の上で夫が笑い、その横で本人もまた口元を緩めている。見比べるうちに、私の口元まで勝手にほどけていく。
「ふふ、同じ顔です。買うより、こちらのほうがよかったかもしれません」
肖像を画帳へ戻し、今日描いた顔とは別の頁に収める。曲げてしまった端を、指の腹でそっと伸ばす。
夫の肖像だけ、売れ残った。
鞄の口を閉じる前に、夫が私を呼ぶ。あと八十七日。その先もこの絵は私の手元にあるのだと、留め具にかけた指が止まる。
「その絵を、また見せてもらえるだろうか?」




