2. 笑うあなたを、知らなかった
「では、今日行こう」
翌朝、夫は食卓につくなり、昨日の続きを切り出した。湯気の向こうで、私の返事を待っている。離婚まで、あと八十九日である。
「席は最後列がいいです。周りを気にせず、声を出して笑ってみたいので」
「最後列だな。見えにくくはないだろうか?」
「見えにくいくらいが、ちょうどいいんです。笑った顔を誰にも見られずに済みますから」
「見られて困る笑い方をするのか?」
「大きな声で笑うと父に叱られたので……一度くらい、誰にも叱られずに笑ってみたくて」
夫は口を開きかけ、そのまま少し黙った。私は冷めかけたお茶へ目を落とす。やがて夫は頷き、朝食を終えると、今日の用事は昼までに済ませると告げた。
劇場行きを門番へ伝え、昼には馬車の前に立つ。肩から滑った栗色の片編みを、私は指で持ち上げた。朝から何度も、最後列で笑う自分を思い描いている。まだ、うまく想像できない。
「鑑賞の練習なら、君が見やすい場所を選ぼう」
「予定では、そうなんですけど」
夫はもう御者へ顔を向け、前の良い席が取れるか尋ねかけていた。
「叱る者がいないなら、前で笑えばいい。伯爵家の名で頼めば、前の列も空けてもらえる」
私は馬車の踏み段に足をかけたまま、返事に詰まる。御者のモーリッツが、跳ね上がる白髭を揺らして吹き出した。
「旦那様、前で笑えば役者に睨まれますからな。最後列こそ大笑いの特等席ですぞ」
「そういうことです! 気楽に笑いたいので、あなたも最後列にしませんか?」
「わかった。そうしよう」
「でも、別れてからの予定なのに、手伝ってもらっちゃって良いのかしら?」
「別れたあと君が困らないように、準備を手伝うのは契約の内だ」
同行の返事は、いつもの調子である。差し出そうとした手が、ほんの少し遅れる。モーリッツは白髭の下で笑いをこらえながら、私が乗り込むのを支えてくれた。
「笑い方まで、お二人で練習ですかな?」
「声を抑えろと言うつもりはない」
「では、遠慮なく笑いますから、あとで驚かないでくださいね」
それでも夫は真顔だ。長身を折って乗り込む夫の隣へ、私は腰を下ろした。これから笑いに行く人には、とても見えない。
◇
劇場の入口には、父の使いが待っていた。耳の上で短く揃えた髪に、汗が光っている。丸く張った頬に愛想笑いを浮かべ、使いは私の前で手紙を開いた。
「劇場の入口にまで……お父様からの手紙ですか?」
「お前に席の良し悪しは分からん。家の招待に従いなさい」
紙を読む声に、父の口調が重なる。背筋を正しかけて、私は鞄の持ち手を握り直した。使いは門番から行き先を聞き、近道をして先に着いたという。
「昨日、最後列がいいとお話ししたのを……お父様、聞いてくださっていたんですね」
「ですから、子爵様が選んだ安心なお席へ替えていただきます」
私は入口の札売りの台に向き直った。父が用意した席へ続く通路は、その反対にある。開いた手紙が、視界の端でかさりと鳴る。
「替えません! 今日のお芝居は、自分で選んだ席で見ます」
「ですがお嬢様、お迎えの馬車も待たせております」
「帰りも自分で決めますから、お父様には、私の返事を伝えてください」
財布から銅貨三枚を取り出す。札売りの台へ置くと、思ったより澄んだ音がした。受け取った最後列の札を、折らないように指で挟む。夫は自分の代金を払い、ごく自然に私の隣へ並んだ。
「あのぅ……伯爵様からも、お勧めいただけませんか?」
「彼女が決めた席だ。私がどうこう言う話ではない」
使いの笑顔が細くなる。私は夫を見上げかけ、札を持つ手を胸元へ引き寄せた。終演まで待つという声が、背中を追ってくる。振り返らずに、私は客席へ入った。
灯りの落ちた客席には、蝋と埃の匂いがこもっている。舞台の灯りが、並ぶ客の頭を金色に縁取っていた。演目は三幕の恋愛喜劇。恋をした男が本心を隠すたび、言葉だけが違う相手へ伝わってしまう。夫は背筋を伸ばしたまま、静かに舞台を見ていた。私は笑いが起こるたびに、隣をそっと窺う。
男が恋文を帽子に隠し、別の帽子を必死に追いかけ始めたところで、隣から息が漏れた。
「……違う、その帽子ではないんだな」
「アウレール様、声が届いたらお芝居が終わってしまいます」
夫はすぐに口元を押さえる。ところが役者が空の帽子に、やられたとばかりに笑い声を上げると、指の隙間から、こらえきれない声がこぼれた。
「ははっ、今の顔を見たか?」
「見ましたけど、あなたも同じ顔をしていますよ!」
「……していない、断じて」
言い切ったそばから、揺れる肩が私の肩へ触れる。笑いながらこちらを向く夫につられ、私もとうとう声を上げた。咄嗟に口元へ寄せた手を、膝へ戻す。誰も振り返らない。椅子の上で、私はほんの少し夫に身を寄せた。
彼は二十七歳だ。朝食で向かい合うときより、今のほうがずっと年相応に見える。夫の笑い声を聞こうとして舞台の台詞を聞き逃し、私は慌てて前へ向き直った。
最後の幕で、男は女の帰る馬車を前に、立ち尽くしている。さっきまで笑っていた客席から、潮が引くように声が消えた。
私は息を止める。追いかければ、まだ届く。そう思うほど、胸の奥が狭くなった。肩に触れる夫の腕も、固いまま動かない。
舞台の男がようやく駆け出すと、私は夫と一緒に拍手を送った。手のひらが熱い。顔を見合わせれば、また笑い声が重なる。最後列でこんな声まで聞けるとは、席を選んだときには思わなかった。
終演後は窓辺で夫を待たせ、画帳を開く。明るい紙の上で、鉛筆の先が少し迷った。笑うと少し上がる、角張った顎先。その顔を逃したくなくて、二枚目に描き留める。
「この顔をしていたのか?」
差し出した絵を覗き込むうちに、夫の眉まで緩んだ。その顔も描きたくなるのをこらえ、私は鉛筆をしまう。
「はい、隣で見ていたので、よく分かります」
「……人前では、もう少し締まった顔をしているつもりだった」
「私は、締まっていないお顔のほうが描きやすいです」
出口に残っていた使いが、馬車のほうへ手を差し出した。私たちの顔を見比べると、その手が宙で止まる。
「お疲れでしょう、お嬢様。子爵様のお席でしたら、もっと落ち着いてご覧になれますのに」
「選んだ席で、とても楽しく見られたと、お父様にもそのまま伝えてください!」
使いの愛想笑いが消えた。私は画帳を胸に抱えたまま、頷く。使いはようやく手紙を畳み、空の馬車へ戻っていった。通りの風が頬に触れる。劇場の熱が、まだ肌に残っている。
「あなたが笑うたびに私まで揺れて、肩でお芝居を見た気分です」
「君も同じなのだから、私だけ揺れていたように言わないでくれ」
「いいえ、数えていましたけど、あなたのほうがたくさん揺れていましたよ」
「数えるほど、こちらを見ていたのか?」
夫が肩を少し持ち上げた。触れていた場所へ伸ばしかけた指で、私は鞄の持ち手を握る。返事の代わりに、革をきゅっと鳴らしてしまった。
「……最後は、あのまま見送ってしまいそうで、少し悲しくなりました」
「あの男、好きなら言えばいい」
「そうですね。三幕も黙っていました」
夫の足がぴたりと止まる。先ほどまで緩んでいた背筋が、急にまっすぐになった。
「……私への批評か?」
「お芝居の話ですよ?」
私は口元を押さえる。夫は姿勢を直したまま、劇場の入口を振り返った。私もつられて目を向ける。人の少なくなった扉の奥は、もう薄暗い。
「また来るときも、あの席か?」
「はい、隣の笑い声も楽しみにしますから、声を抑えないでください」
夫の肩がまた揺れた。今度は役者ではなく、こちらを見ている。「また」と口にした唇へ目が留まる。画帳を抱き直すと、表紙の角が腕に小さく食い込んだ。帰れば、残りの日はまた減る。それなのに私は、次もこの隣に座るつもりで返事をしている。
「あなたも、笑うんですね」




