1. 離婚の準備に、外出着
離婚まで、あと九十日。
紙の見出しは、『別れたあとにしたいこと』。
契約書の財産分与の欄に、その紙を重ねた。前夜に書いた四十行を、私のほうへ向ける。
「別れたら、市場で買い食いをしてみたいんです」
「では、今日行こう」
向かいの夫、アウレール・ゾンマーフェルト伯爵は、なぜか上着を取りに立ち上がった。返事をする前に、朝食の椅子だけが揺れている。
私はロジーナ、二十一歳。リンデンホフ子爵家の娘で、人の表情を描く。欲しいものほど遠慮するのが、私の悪い癖だ。
契約は一年。朝食だけは共にする。終えたら分けてもらう家で、一人、自分の絵で暮らす。
結婚から二百七十五日、食卓では用件しか話さずに過ごしてきた。その夫の着替えを待つ間に、帰還の相談だという父が来る。
「離婚したら家へ戻れ。次の縁談はもう決めてある。お前は一人では暮らせない」
白の交じる髪を額から撫でつけ、父は座るより先にそう言った。私は栗色の片編みを肩の後ろへ払い、紙を自分の前に広げる。
「私には、自分の家で暮らす支度が……」
「その紙で自立か? はは、お前は何をするつもりだ?」
答えかけたところへ、夫が外出着で戻ってきた。父への返事より、着替えのほうが早い。
「ロジーナ、支度は終わったか?」
「予定では、そうなんですけど」
黒髪を軽く横へ流した夫が、扉の前で私を待つ。
「別れたあと君が困らないように、準備を手伝うのは契約の内だ」
「市場で買い食い、芝居を最後列で見る、自分の描いた絵を売る、祭りで輪投げをする、川辺で自分の用意した弁当を食べる……お父様、私、こういう暮らしが欲しいんです」
読みながら、二行目だけは指で隠した。知らない街に一人で泊まる願いまで、笑われるのは嫌だ。
紙の下端に折り込んだ最後の願いは、『好きな人と結婚する』。
相手を決めて書いた行ではない。それでも、折り目を開く気にはなれなかった。
「遊びの列挙ではないか? 飯も買物も、家で整えてやる」
「選んでほしいのではありません! 私が選んで、私が払いたいんです!」
「ならば儂が買物を見届けよう。結局、財布を出すのは親だと分かる」
夫は一歩下がり、私と父の間を空ける。代わりの返事が来ないことに、私は小さく息を吸った。
「今日は市場へ、自分の足で行きますから、代金も私に任せてください」
父は薄く結んだ唇を緩め、自分の馬車を呼ぶ。市場で待つと言い残し、私の紙には手も触れずに出ていった。
◇
徒歩で着いた市場では、先回りした父がもう財布を出している。初夏の光が露店の屋根に弾み、焼き菓子の甘い匂いに、つい足が速くなった。呼び込みの声が近い。
「どれが欲しい? 儂が選んでやる」
「その焼きたてのお菓子をください。代金はここにあります」
婚前の小遣いをためた財布から、銅貨二枚を露店の主へ渡す。硬貨が触れ合う音は、思いのほか小さかった。菓子は私の手に、父の財布は宙にある。
「お父様の分ではありません。私が買ったお菓子を、今日は食べて帰ります!」
「菓子だけで暮らしが立つものか。家の話はまたするぞ」
「家の話は九十日たってからにしてください! 今日はお菓子の日です」
父は財布をしまい、馬車へ向かう。その背に心細さを感じそうになる胸を奮い立たせ、私は包みの端を開いた。
父の馬車が角を曲がる。車輪の音が呼び込みに紛れるまで、肩に力が入っていた。契約は五か条で、寝室も日中も別、私室には招かれて入る。分与は借金のない王都の小家と銀貨百二十枚で、離婚しなくても取り消されない。契約を知るのは夫婦と父、御者のモーリッツ、友人のベアテだけで、父の使いには離婚の予定しか知らせていない。
「父が市場まで先回りして……朝から気まずいところばかりお見せして、まだ顔が熱いです」
「でも、君が選んで、君が払ったのだから、それでいい――行き先もやる事も、君が選んでいる」
「……そんなふうに言ってもらえたのは初めてで、今の、もう一度言ってください」
「何度でも言う――君が選んで、君が払った。いいことだ」
包みの温かさが、こわばった指にしみてくる。たったそれだけのことを、誰かに認めてほしかった。
「離婚したら自分の名で家を持って、父でも私が承知しない縁談は結べなくなるんですから……住む場所も毎日の買物も、もう許しを待たずに決められるよう、今日のうちから練習しておきたいんです」
私は包みを握り直す。父が前に決めていた相手は、家の貸金を帳消しにする代わりに後妻を望む寡夫だった。あのときの息苦しさを思い出すと、今も喉が狭くなる。
「……あの縁談から一年逃れられて、こうしてお菓子を選ぶだけでほっとできるのも、あなたのおかげですから……ありがとうございます」
「私にも叔父の勧める隣領の縁談があって、互いに一年を借りたんだ――礼を言うなら、私も同じだ」
一年という長さは、小家の修繕と独立資金の用意、家政の引継ぎを見込んで決めた。終わる日ばかり数えて、その間に何ができるかは考えていない。
「終わる日まで待たなくていい。この約束だって、二人で合意すれば変えられる」
夫が菓子を二つに割ると、蜂蜜と焦げたバターの匂いがふわりと上がった。断面からこぼれる細かな欠片まで、目が追ってしまう。片方だけ、ふくらんだ端が大きい。
「半分のどちらがいい?」
「ふふ、大きいほうよ! 遠慮しません」
差し出されたほうを、指先でそっと受け取った。朝食では向かいにいた人が、今は露店の脇で隣にいる。深い緑の目が私の菓子を追うので、なぜかすぐにはかじれない。
「買い食いは離婚してからの予定ですよ」
「今日食べても味は変わらないさ」
さくりと菓子が鳴り、夫の口の端に粉がついた。私の視線に気づいたのか、彼は次のひと口を止める。
「……今日を覚えていたらあとで寂しくなりそうで、一人で食べる練習には、なりませんね」
「ははっ、冷めてしまうから、今日は今日の分を食べよう」
私はまだ温かい端をかじった。薄い皮が歯の下でほどけ、甘さが舌に広がる。飲み込んでも口元は緩んだままで、夫の顔をまっすぐ見られなかった。
「私の決意は、少し変わりそうです」
「決意とは、どの行の話だ?」
「紙には書いていない決意ですから、内緒です」
「口に何かついているか?」
夫の布は、汚れていない側を拭いている。私は笑いをこらえ、自分の頬を指で示す。
「反対です、ふふ、粉だけ残って……」
「こちらか……まだある?」
角張った顎先を上げ、夫は両側を確かめる。ようやく粉が消えても、私はその顔から目を離せずにいた。忘れる前に、と腰掛けを指さす。
「今のお顔を残したいので、少し描かせてください」
「……粉のついた顔をか?」
「さっきまでとても困っていらした、粉の取れたお顔をです」
両手のひらほどの画帳と鉛筆は、鞄にある。いつも持ち歩いているのに、夫を描こうと取り出す指は少しもたつく。
私が画帳を開くと、夫は頼む前に腰掛けを斜めに直し、鉛筆を持つ私の手元を見た。
頬骨の高い面長に、薄く赤みが差している。画帳に残したいのは、口を拭き終え、照れたように唇を結ぶ夫の顔だ。鉛筆の先ではその色だけが描けず、もどかしかった。
「……描かれるというのは、落ち着かないな」
「今、いちばんいいところですから、動かないでください!」
一枚目を見せると、夫は絵の口元を確かめる。真っ先にそこを見るものだから、また笑いそうになった。
「粉は描かなかったんだな」
「そちらが欲しかったんですか?」
夫は小さく首を振る。私はまだ少し名残惜しい顔を画帳の中にしまい、願いの紙を取り出した。
「次は?」
買い食いの行を消し、その下をもう一度指で押さえる。一人旅はまだ言えなかった。一人で叶えるはずの願いを、隣から尋ねられている。父に読んだ願いの中から次を選ぶ間も、消した行に目が戻ってしまう。
「次の願いも聞かせてほしい」
「……芝居を、最後列で見たいです」




