9.推理編②
「いや……違う」
ぼくはすぐさま、自身の考えを否定した。
完全に犯人候補から除外していたが、一人いるではないか……。確実に硫化水素を回収することができる人物が。
「わかりました! 犯人は採用担当の男性社員ですよ!」
「……どうしてそう思ったんですか?」
りんごさんは、ほんの少しだけ目を細めながら訊き返した。
「だって考えてもみてくださいよ。もしも採用担当の男性が犯人じゃないのなら、その人も硫化水素の被害に遭っているはずじゃないですか。だから犯人は『最初に現場に来た人』なんですよ。彼はぼくたちを助けるフリをして、こっそり硫化水素を回収したんじゃないでしょうか?」
「おお!」
ぼくの解答を聞いて、りんごさんは顔を綻ばせた。しかし。
「でも不正解です」
と、即座にぼくの推理を否定した。
って、違うんかい……。
じゃあ、何の「おお!」だったんだ?
この人、変なところで茶目っ気出すよな。
「まあでもかなりいい線いってますよ」
りんごさんはフォローするように言った。
「しかし採用担当の男性では絶対に犯行が不可能な点があります」
「……それは、どの点ですか?」
「たしかに彼であれば硫化水素を回収することは可能です。しかし散布する際の絶対的な距離が足りません。なぜなら『魔法式』で魔法を発動する際――その魔法使いは『半径十メートル以内』に必ずいなければなりませんから」
「あ」
りんごさんにそう言われて、ぼくははっとした。
『魔法式』の発動条件。
『物質に自身の体液を混ぜること』と『魔法発動時、その物質の半径十メートル以内に使用者がいなければならない』の二つ。
「あのビルは七階建。一般的にビルの七階は二十一メートル相当の高さになります。ですから七階にいた採用担当の彼が低層階で硫化水素を散布させることは不可能です」
りんごさんは、ドレスについた埃を払いながら言った。
「ん、でも待ってください……それだと、犯行可能な人物がいなくなりませんか?」
あのとき、一階エントランスにいた容疑者三人。キャリアウーマンは除外するとして、受付でテレビを観ていた肥満体型の男性と右側のエレベーターを掃除していた清掃員の男性。この二人にも、採用担当の彼と逆のことが言えてしまう。
そう。彼らはどちらも硫化水素を、一階で散布させることができても、七階で回収することができないのである。
「いえ。犯人はその二人のうちのどちらかです」
「…………」
管理人と清掃員。
犯行動機やアリバイだけで見ると、どちらもありえなさそうに思えるが……。
「いや……ある……」
ここでぼくは、やっとあることに気がついた。それはずっとひそかに気になっていたことだった。
犯人が魔法を発動する回数は『散布』と『回収』の二回だとして。問題はそのタイミングについてだ――どうやって犯人は、魔法を発動するタイミングを確認したのだろう? 一階で散布させるタイミングはともかくとして、七階の間際で回収するのは、かなり困難なのではないだろうか?
そのタイミングをほぼ確実に合わせる方法。それは――
「階数パネルで、ぼくたちがいる階数を目視で確認していた?」
「一階で直接目視していたら七階での距離が足りませんね」
「じゃあ、エレベーターが一階から七階まであがる秒数をあらかじめ計算していた? そうすれば扉が閉まってガスを散布させた直後、階段を駆けあがれば七階で追いつけるはずです」
「そんなことせずとも。もっと確実に簡単に時間を合わせる方法がありますよ。それに犯人は一歩も歩いていないと思いますよ」
……一歩も歩いていない?
「あ」
そういうことか。
「……犯人はエレベーターに乗って、ぼくたちと同じ速度で七階まであがっていったんですね」
「ご名答」
りんごさんはそう言うと、ふっと頬を緩めた。
「犯人は清掃中だった右側の筐体に乗って門間さんたちが乗っていた左側の筐体を少し後から同じ速度で追いかけながら『魔法式』を発動していたのですよ」
そんな芸当ができるのは一人しかいない。
「はい。犯人は清掃員です」
つまり。
清掃中に見せかけた右側の筐体に乗っていた清掃員は、ぼくたちが乗った左側の筐体が七階に向けて移動した直後、硫化水素を『散布』しつつ、自身も七階に向けて上昇した。そしてぼくたちが乗った筐体が七階に到着する直前に、清掃員は硫化水素を『回収』し、その後何食わぬ顔で自身の持ち場に戻ったということらしい。そうすれば『魔法式』の半径十メートル以内というルールの謎も解ける。
「でも、まだ疑問がいくつか残ってますよ」
ぼくは言った。
「清掃中のエレベーターがいきなり動いたら、周囲の人たちが気づきませんか?」
あのときエントランスには、清掃員のほかに管理人とキャリアウーマンがいた。
「筐体の清掃作業が終わったかどうかをいちいち気にしている人のほうが稀だと思いますけど。それにあの場にいた受付の管理人は仕事も真面目におこなわずテレビに夢中でいらしたんでしょう? キャリアウーマンも電話をかけていたのなら意識はほとんど会話に向いていたのでしょう。だから清掃中の筐体に意識を向けていた人は誰一人いなかったんだと思いますよ」
「でも、上階にあがるだけだったら階段でも可能ですよね? 受付の扉の正面に階段があるので、管理人であれば目を盗んで七階に上がることはできますよ。実際、清掃員とキャリアウーマンの位置からじゃ、管理人が通路を横切っても見えませんから」
「四十代で肥満体型の管理人がノンストップで上がる筐体を一階から七階まで走って追いかける……。彼が筐体のスピードに追いつけるとは到底思えませんし七階まで走り切るのも困難だと思いますよ。それに事件発生直後。彼が大量の汗をかいていたとか息を切らしていたとか――そういった怪しい動きは報告されておりません」
「……ぼくたちの乗ってたエレベーターが、途中のフロアで止まる可能性はありましたよね? その場合、犯人はどうやって『魔法式』を発動させるつもりでいたんでしょうか?」
「それは確実な方法があります。考えてもみてください。ビルの高さは一階につき約三メートル。このビルは七階建なので約二十一メートルです。で七階の床面の高さは約十八メートル。そして『魔法式』の有効射程距離は十メートル。確実に『魔法式』を発動させたいのであれば――四階(床面の高さ約九メートル)で魔法を発動すればいいのですよ。そうすれば門間さんたちが何階にいても魔法は絶対に発動することができますから」
それに、とりんごさんは続ける。
「あのビルは小さいですし受付の管理人が業務中にテレビを観ているくらい昼間の利用者がほとんどいない。それに加えていつもあのビルで働いている清掃員ならエレベーターが稼働しない時間帯を狙うこともできたでしょう」
これが、エレベーター事件の真相だという。
「…………」
これ以上ぼくからの反論がないことを確認すると、りんごさんは本棚から一冊の文庫本を手に取って、それをぼくに手渡した。
本のタイトルは『シャーロック・ホームズの冒険』だった。頁をぱらぱらとめくると、間に栞が挟まっていた。
「『青の紅玉』?」
「その短編もわたしが好きな回です。ガチョウがとっても可愛いんですよ。まあ序盤で捌かれていい匂いのするキチンになるんですけどね」
「ええ……」
りんごさんはそんな物騒なことを言いながら、奥の別室へと向かった。
「犯人もわかったことですしこれからその清掃員に会いに行くとしましょう。だけどその前にわたしは少し準備をしなければなりません。なのでその間――その本でも読んで待っていてください」
「準備って、何をするんですか?」
りんごさんの顔を見たが、彼女はすでに化粧を済ませている。というか彼女の場合、顔が整い過ぎているし、かなりの童顔なので、そもそも化粧の必要がないくらいだった。
「淑女は出掛けるのに色々と準備が必要なんです」
そう言っている彼女の手には、何かのスプレー缶が握られていた。
……スプレー缶?




