6.魔法の前提条件①
「あの女性は『液体を自在に操る』能力を持つ魔法使いでした。その力を使って被害者の口や鼻を覆い窒息に至らしめた。事実被害者の男性の遺体を調べましたが死因は窒息死でした」
りんごさんは当時のことを思い出すように、視線をやや上に向けながら話し始めた。
「ちなみにあの女性の素性は都内のマンションで一人暮らしをしていた普通の会社員。犯行動機はどこにでもあるような痴情のもつれだそうです。デート中に彼の浮気が発覚して犯行を決意した彼女は帰り際に人通りの少ない駐車場の陰でいちゃつく振りをして殺害に及んだ。そしてその現場を偶然目撃したあなたも口封じのために同じ手で始末しようとした――まあそちらは未遂に終わりましたけどね。とまあ。以上があのときの事件のあらましになります」
「あの……そのときの事件と、ぼくの魔法が効かない体質と、何の関係があるんですか?」
ぼくがそう訊ねると、りんごさんは「関係大ありです」と微笑した。
「わたしはあのとき一目で見抜きました。『魔法式』が込められた水があなたの身体に触れた瞬間――否。水はあなたの身体に干渉することなくそのままするりと地面に流れ落ちたんです。どうやらあなたは魔力が込められた物質や魔法で発生させた現象の影響をまったく受けない体質のようです」
「魔法の影響を受けない体質……」
その情報は前にも彼女から聞いていたので、ぼくが魔法が効かない体質だということは、自覚していなくとも知覚はしていた。
「まあ説明できる範囲で説明するのであればおそらくあなたは魔法による物質や現象によって引き起こされた物理法則の結果を捻じ曲げて『完全に無かったこと』にしてしまうようです。魔法による因果律に何らかの影響を与えているのか。そもそもレイヤーが違う絵のように――一見重なり合っているように見えるだけで実は全然違う領域に存在しているのか。細かい原理までは判明していませんけれどね」
長いのでこれからは『魔法不干渉』とでも名づけておきましょうか――と、りんごさんは言った。
それから、彼女はぼくの顔をじっと見つめた。その目はまるで面白いおもちゃを見つけた子供のような無邪気さと愛らしさ、そして残酷さが入り混じった目つきだった。
「だからあなたは魔力が込められた水や硫化水素で窒息しなかったのです。『魔法式』が組み込まれた物質は、それ自体が魔法みたいなものですからね」
りんごさんの説明に、ぼくはある矛盾を感じた。
「ちょっと待ってください。『魔法不干渉』……ですか? 実際にぼくがそんな体質であれば、どうしてぼくはあのとき、エレベーターで意識を失ったんですか? それに魔法の水による窒息未遂のときも、ぼくは呼吸が苦しくなったことが原因で意識を失いかけたんです。それに、水が顔や肺の中に侵入してくる感覚もたしかにありました。ぼくが魔法を無効化する体質であれば、それらによって気を失うことはありえないんじゃないんですか?」
「あら?」
ぼくの疑問に、りんごさんはきょとんとした表情で言った。
「ご自分のことなのに気づいていないんですか?」
「気づいていない? なんのことです?」
「過去に二度――あなたが硫化水素で気を失ったときと水で気を失いかけたとき。どちらのシチュエーションのときも近くに女性がいましたよね?」
そう言われて、ぼくはごくりと生唾をのんだ。
カップに手を伸ばしたが、中身は空だった。
それは、ぼくがずっと明言を避けていたことだった。りんごさんにもまだ言っていないこと。
彼女がそれに気づいているのだとしたら、「あれ」にも気づいているのか?
ぼくの過ちに……。
「そ、それが、なんだって言うんですか?」
意味はないかもしれないが、それでも、ぼくはしらばっくれるような口調で言った。
そんなぼくには意にも介さないように、彼女は淡々と語りはじめる。
「ご自分でも仰ってたじゃないですか。呼吸が大きく乱れた。冷や汗が出た。前後不覚の状態に近かった。パニック状態に陥ったって。おそらくあなたはたび重なる『女難の相』によって重度の女性恐怖症になってしまったのです。女性に近づかれて体調不良になり立っていることすら限界な精神状態。そんななか目の前で女性が二人も死んだのです。そのショックで気を失ってもなんら不思議ではないと思いますけど」
「つまり、ぼくが気を失ったのは……」
魔法うんぬんは何も関係がなく、精神が極限状態に追い込まれたゆえのものだと、彼女ははっきりとそう断言した。
「で……でも医者は、硫化水素中毒による呼吸困難で気を失ったって……それに硫化水素の臭いだって……」
「それはおそらくこんな臭いだったんじゃないでしょうか」
そう言うと、おもむろにりんごさんは、棚にあった透明のビニールに入ったハンカチを取り出した。そのハンカチには見覚えがあった。
「そのハンカチは、あの眼鏡の女性の……」
「そうです。このハンカチは無理言って刑部警部から借りてきたものです。事件当時そのままの状態で保管してあります」
言って、りんごさんはビニールを開けて中からハンカチを取り出す。そしてそれをぼくに嗅がせるように、顔の前に差し出した。
ぼくはそのハンカチの臭いを嗅いだ。その臭いはたしかに、エレベーターで嗅いだときと同じ、腐った卵のような臭いだった。
「これは、一体?」
「これは彼女が自分の汗を拭うために使っていたハンカチです。あなたがエレベーターで嗅いだ腐った卵のような臭い。それは彼女の汗のにおいだと思います」
「汗のにおい? でも、彼女たちから感じた匂いは、きつい香水の匂いだったはず」
「それはたぶん小柄な女性がつけていた香水の匂いでしょう。あなたの証言によると小柄な彼女は彼氏がいるにもかかわらずあなたに言い寄っていたそうですね。格好も派手めなようでしたし匂いの強い香水をつけていてもおかしくないでしょう。でも眼鏡のやつれた彼女は全体的に地味めだったようですし彼女がそんな香水をつけているとは考えにくいです。それに筐体内はとても狭く先述の通りあなたはパニックで正常な判断ができない状態だった。なのでにおい自体は感じることができてもその出所まではわからなかったのだと思います」
なんなら刑部警部に頼んで彼女たちの遺留品を隅々まで確認してみますか? その香水が出てくるはずですよ。と、彼女は自信ありげな調子でそう言った。
ぼくはりんごさんが、自分は鼻が利くと言っていたことを不意に思い出した。
「……眼鏡の女性から腐卵臭がしたのは、どういったからくりなんですか?」
ぼくの質問を受けて、りんごさんは手にしていたハンカチのにおいを確認しながら答える。
「皮膚ガス臭です」
「ひ、皮膚ガス臭?」
馴染みのない言葉に、ぼくは首を傾げた。
「ストレス臭とも呼ばれるもので――その名の通りストレスや疲労などが原因で皮膚から発生するガスのことです。人は疲労や強いストレスが重なると血液中のアンモニア濃度が上昇し皮膚からガスが発生することがあるんです。そのガスの臭いがSTチオジメタンという硫黄化合物系の成分を多く含んでいるために硫黄の――腐った卵のような臭いになるのです」
「ストレス……ですか?」
「眼鏡をかけていたのは目の下の隈を隠すため。眉間を揉んでいたのは仕事に忙殺されて眼精疲労があったから。実際彼女の勤めていた会社は少数精鋭で一人当たりの業務量が多かったそうです。そう考えれば彼女がストレス臭を発していても何らおかしくはないと思います」
「しかしそうなると、小柄な女性が男漁りに精を出していたことが疑問ですがね。プライベートならともかく、ぼくに声をかけてきたことからもわかるように、普段からあんな感じだったと思いますし……」
「これは憶測ですが小柄な彼女は若くて綺麗な方だった。おそらく社内でも人気があったのでしょう。もしかしたら彼女の業務は同僚の男性陣が肩代わりしていたのかもしれません。なんならその仕事を眼鏡の女性に押しつけていた可能性すらあります。まあ真相は闇の中ですがね」
「なるほど」
「それにあのとき二人は走ってエレベーターに乗ったために少し汗ばんでいた。汗をかけば菌の臭いはさらに拡がる。その臭いにあなたが気づいたという寸法です」
「それなら、一般的に女性は男性よりにおいに敏感ですよね? であれば小柄な彼女もそのにおいに気づくのでは?」
「気づいていたと思いますよ。ただし自分より年上の同僚に臭いを指摘できるかどうかはわかりませんけれどね。それに毎日同じ空間で過ごしていたら臭いも段々慣れますもの。とまあ以上が――あなたがエレベーターで感じた腐卵臭の正体です」
そう言って彼女は再びハンカチのにおいを嗅ぎながら、「う……。このにおいはあまり好きではありません」と顔を顰めていた。
「そういえば門間さん。あの企業との面接はどうなったんですか?」
「ああ……。それは、完全に白紙になりました」
「あら。それはどうして?」
「急に従業員が二人も亡くなって、諸々の手続きや対応に追われてるそうで……。単純にぼくの相手をする時間がなくなったのと、今回の事故を機に社内体制を見直すとかで、採用活動自体を一旦中止するみたいです」
「怪我の功名ですね。事件の捜査にあたってこの企業のことを色々調べていましたがこの時期に新卒の採用面接の予定を組む当たり――正直言ってあまりいい企業じゃなかったと思いますから」
「あう」
そんな企業に縋るように面接を受けにきたのが、ぼくなのだが……。というか、この先自分を雇ってくれるところなんて存在するのだろうか。少し先の未来を想像し、ちょっとだけ憂鬱になるぼくだった。
しかし、とぼくは頭を振った。今はそんなことを憂いている場合ではない。
確認しなければならないことが、まだひとつある。
「じゃあ、医者がぼくを硫化水素中毒だと診断した理由は?」
「誤診でしょうね」
こともなげに、りんごさんはそう断言する。
「同じ筐体内にいた二人の女性がどちらも硫化水素中毒で死んでいますからね。残りの一人も呼吸困難で気を失っていたらお医者さまがそう診断するのは仕方のないことだと思いますけど。たとえ気を失った本当の原因がパニックによる過呼吸だったとしてもです」
「ええ……」
あの女医、ヤブだったのか……。
これも……不幸体質の影響なんだろうか。
などと、そんなことを考えているぼくに対し、
「しかし何なのでしょうね。あなたのその体質は」
とりんごさんは言った。
「特に『魔法不干渉』……。まるで”魔女”からあなたを守る『お呪い』みたいですね。まあ『女難の相』に関してはお呪いというより『呪い』ですけど」
言って彼女は「うふふ」と口を押さえながら笑った。自身の不謹慎な洒落がツボに入ったらしい。
いやだから、人の不幸で楽しまないでほしいんだけど……。
それに……ぼくは自分のこの体質が本当に嫌いなのだ。これまでの人生、この『女難の相』の所為で、散々な目に遭ってきたのだから。
「でもわたしはあなたのこと好きですよ」
「え? 好き……?」
いきなりそんなことを言われ、ぼくは頬が熱くなるのを感じた。
「はい」
しかし当のりんごさんは、恥ずかしげもなく続ける。
「『女難の相』。あなたの周りでは魔法使いの仕掛けた魔法絡みの事件がしばしば不発に終わって奇妙な未解決事件として残ってしまう。普通なら綺麗に処理されるはずの魔法の痕跡があなたという例外のせいで現実に取り残される――事件の証拠としてね。そういう奇妙な謎がわたしは何よりも好きなのです。そんな謎を呼びよせるあなたの体質も好意的に捉えていますよ」
「ああ……体質が好きということですか……」
彼女の言葉に、少し落胆する。
「……ん?」
あれ?
ぼくは、自身の言動に疑念を抱いた。
……落胆した?
それに、頬が熱くなる?
――女性恐怖症のぼくが?
「…………」
「……? どうかしましたか?」
「いえ……何でもありません……」
「はあ。そうですか――では話を進めてもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ……」
そうは言いつつも、意識は先ほど抱いた疑念で渦巻いていた。
そういえばどうして、ぼくは女性であるりんごさんに対して、恐怖心や嫌悪感を抱かず、普通に接することができるのだろうか――と。




